それは突然のことだった。
 戦の真っ最中だってのに本陣が苦戦してると聞いたとたん、俺の横にいた姜維がいきなり駆け出した。
「丞相ー!」
「姜維、バカ!」
 あいつになにかあったら…俺は周囲の雑兵をなぎ払うと副官たちが止めるのも聞かず、姜維を追って
走り出していた。
「丞相の側には魏延将軍もおられるというのに、お前がいく必要がどこにある」
 ようやく追いついた姜維を俺はきつく叱責した。
「で、でも、丞相が…丞相が…っ」
 情けない顔をして…あの人のためなら軍規違反もかまわないっていうのか。
「お前にはお前の責務がある。それを果たさずして丞相が喜ぶと思うのか」
 俺はいらだたしさも手伝って、つい冷静さを欠いていた。
 だから…
「趙将軍っ!」
…俺の左肩に槍が当たっていた…そしてそれに続くように矢が。
 名のある武将にならまだしも、雑兵ごときに俺が隙を突かれただと? いや、それ以上に戦場だと
いうのに姜維に気を取られていた俺の愚かさが情けない。
 これじゃ姜維のことなんて言えないじゃないか…。

 それからあとのことは覚えていない。
 馬超が援軍にきてくれたからよかったようなものの、俺と姜維は曹軍のど真ん中で孤立していた。
「いやぁ、ケガしていてもあれほど戦えるんだから、俺がいくことなかったかもな」
 人の見舞いにやってきてこいつはそんなことを言う。
「バカ言え。俺だって人間だ。お前がこなきゃ姜維ともども討ち取られていた」
 そのときになって俺はようやく姜維のことを思い出した。
「そうだ…馬超、姜維は? 姜維はどうなった?」
「心配するな。お前が鬼のように奮戦したおかげで、あいつはかすり傷ひとつ負っちゃいない。
 第一、あいつには自分と同じくらいの武がある、なんて言ったのはお前だろう」
「う…まあ、それはそうなんだが」
 どうも俺も丞相と同じで、姜維のこととなると過保護になっちまうらしい。
「ただな…」
 それまで笑っていた馬超の顔がふっと曇った。
「今回のことであいつ、丞相からかなりきついお叱りを受けたようだ。ひどく落ち込んでいた」
 ああ…そりゃしかたがないだろうな。
「丞相だけじゃない。お前を案じる主公からもなにか言われてた」
 馬超の言葉を裏付けるように、まもなく主公と丞相が見舞いにいらした。
 丞相に姜維のことを許してやって欲しいと言いたかったけど、主公の前じゃ言いにくいし…
結局、丞相も姜維のことには触れなかった。
 きっと個人的なことだとでも思っているんだろう。
 俺の部屋には見舞いの品がドンと積まれて…たいしたケガじゃないのに…あ、いてて。
 その夜、ずいぶん経ってから下男が来客を告げた。
「こんな時間にだれだ?」
「それがその…布をすっぽりとかぶって顔を隠していらっしゃるので…お名前もおっしゃらず…
まさか旦那様のお命を狙う刺客では」
「そうおろおろするな。たとえ養生中であっても刺客ごときおそるるに足りん。通せ」
 そいつは俺の部屋へやってきてからおずおずと布を取った。
 下から現れたのは姜維の顔。
「どうした、こんな夜更けに」
「あ、あの…あの…今回は私のために申し訳ないことをしてしまって…」
 かわいそうなくらいうなだれている。
「丞相と主公から、お叱りを受けて…しばらく謹慎せよと」
「ほぉ。それでは今の我が軍は戦力が落ちるな」
 別に自惚れるわけじゃないが、俺と姜維が戦線を離れたら馬超ひとりじゃきついだろう。
 関羽将軍や張飛将軍は別の要地の守りにいっているし。
「だ、だから姜維は早く趙将軍によくなってもらいたくて、お世話にまいったのです」
 世話って…うちには下男も侍女もいるんだけど。
「あの…あのおケガのほうは…」
 ずいぶんとかわいらしい顔で心配してくれる…せっかくだからここはひとつ、天の与えてくれた
機会にのってみるか。
「うん、痛い」
「えええっ! そ、それは大変です。さあ、早く横になってください。なにかほかにしてほしいことは
ありませんか」
「そうだなぁ…粥が食いたいな」
「わかりました。すぐにお作りして持ってきますね」
 姜維がパタパタと走り去る音がして、俺は必死に布団の中で笑いをこらえていた。
「将軍、お粥ができました。食べさせてあげますね。熱いですから冷ましましょう」
 蓮華にすくった粥をふーっふーって…俺は子供か。
「はい、あーんしてください」
 さすがにこれは恥ずかしいぞ。
「いや、自分で食えるから…」
「ダメですっ。それでは私の仕事がなくなってしまいます」
 なんでこんなことに燃えてるんだ、お前は。
 しかたなく俺は口を開けた。
 そこに姜維が冷ました粥を運んでくれる。
「お粥を食べたら身体を拭いてさしあげますね。先ほど家人にお湯を沸かしてもらうようお願いして
きましたから」
「はいはい」
 今は逆らわないようにしておこう。
「うわあ、趙将軍の身体、傷だらけ…」
 粥を食い終わったら本当に俺の衣を脱がせて身体を拭きにかかった。
「そりゃあ幾つもの死線を越えてきたんだからな」
 身体を拭いて衣を戻してくれたとき、姜維の目はやけに真剣だった。
「これからは、自分が一生懸命がんばって、趙将軍の傷がこれ以上増えないようにします」
「そりゃ勇ましいな。で、このケガはだれのせいだったか?」
 そんなことを言っていじめてやると、また情けない顔になる…かわいい。
「うう…姜維は、これから趙将軍が治られるまで、ずっとずっとここでお世話します」
「お、おいおい…」
「もう決めたんですっ」
…って、そんなことを言ってたお前が、なんで俺より先に寝入ってるんだ。
「しかたのないやつだな…」
 俺は俺の足元にもたれて、すうすうと寝息を立てている姜維を自分の寝台に引き上げてやった。
「お前がそんなことを言うと…いつまでも治りたくなくなるじゃないか」
 俺のつぶやきに反応するように、姜維が小さく寝返って俺の身体にくっついてきた。
 なんの夢を見ているのやら微笑んでいる。
「…趙将軍…」
 やれやれ…明日はなにをしてもらうかな。
 それにしても…狭い。
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