『なあ姜維…』
 趙雲の声が耳にささやく。
 姜維は声の主を呆然として見つめていた。

 孔明の策が敵に看破された。先陣を切っていた姜維は敵に囲まれどうにもならない。
「丞相、姜将軍が苦戦しております。いかがいたしましょうか!」
 兵がそう叫んでも、こちらも苦戦を強いられている孔明にはどうしてやることもできなかった。
(姜維、大事の前に私事で兵を動かすわけにはいかない。どうか無事でいてくれ)
 そう願うのが精一杯だった。
 だが、姜維の危機を聞いて黙っていられない男がいた。
「姜維!」
 趙雲は自分の周囲の雑兵をなぎ払うと、一目散に姜維へ向かって突っ込んでいく。
 傷を負い、血まみれの腕で恒一閃を振り回す姜維を見た瞬間、冷静な趙雲が一瞬我を忘れた。
 雑兵の突き出した槍からかばうように我が身を投げる。
「無事かっ、姜…!」
 その隙を敵が見逃すはずはなかった。
 背中に鋭い痛みが走る。
 雑兵の槍ではない。
 その矢の先に、かつて猛将と呼ばれた男の息子の顔があった。
 趙雲が長坂の英雄であるならば、男の父親は董卓討伐の英雄であった。
「趙将軍!」
「逃げ…ろ」
 姜維が驚く間もなく、立て続けに趙雲の身体に矢が射込まれた。
 そしてその機を逃すまいと槍が趙雲に襲いかかった…。

 なんとか自分の隊を立て直した馬超が急ぎ姜維の元に駆けつける。
 だがそこで目にした光景は、わずかな兵卒とともに奮戦している姜維の姿だった。
 そしてその姜維の後ろには倒れた趙雲が。
「姜維っ」
 馬超が声をかけるが、趙雲の首を取ろうと群がってくる敵を払う姜維には聞こえていない。
「ええい、どけえっ!」
 趙雲を射抜いた敵将の首を上げ馬超が近づいても、傷から熱を出して浮かされているらしい姜維の
目には、趙雲に近づくものすべてが敵に見えているようだった。
「くるな! 私の趙将軍の首は、だれにも渡さぬ!」
 見たこともないほど鬼気迫る表情でにらみつける姜維に、馬超の背中を冷たいものが流れた。

 趙雲の遺体は営舎として使っている寺院に安置されている。
 そこへ傷の手当を済ませた姜維がやってきた。
 付き添っていた馬超に力ない声をかける。
「将軍のお顔を、拝見してよろしいでしょうか…」
 馬超は小さくうなずくとその場を離れふたりきりにしてやった。
 姜維はそっと趙雲の前にひざまずいた。
 鎧を脱がされて衣だけの趙雲の表情は眠っているように穏やかだった。
 その隠れて見えない背中に無数の傷があるとしても。
「趙将軍…」
 強ばりの取れた手を取り、自分の頬に押し当てる。
『なあ姜維、この戦が終わったら遠乗りにいこう。お前、いつだって約束してくれないじゃないか』
 この戦の前に趙雲の言った言葉がよみがえる。
「将軍、起きてください。約束どおり遠乗りにまいりましょう? それから…そう、柿を取りにいって、
丞相に言われた薬草を摘んで…寝ている場合じゃありません。あなたを射た敵の首も取らないと…」
 どんなに話し掛けても、どんなに揺さぶっても、返事はない。
 姜維は口をつぐみ目を閉じた。
 涙がつうっと流れる。
「こんな顔でいるとあなたはきっと泣くなっておっしゃるんだ。お前の泣き顔は嫌いだからって…」
 やがて姜維は横たわった趙雲の身体に覆いかぶさった。
 力のない手を自分の身体に回し、冷たい胸に頭をもたれさせる。
「冷たい…抱きしめてください、子龍様。いつものようにふざけてでなく本気で私を抱きしめて…! 
私が…私が温めてあげるから」
 冷たく土色の唇に自分の唇を押し当てる。
 何度も何度も口づけ趙雲の頬を撫で回す。
 熱い涙をいくらでもこぼすのに、趙雲の身体が温まることはない。
『なあ姜維…』
 また趙雲の声が耳に響く。
『今度こそ約束しろよ。俺の分も生きると…』
「いやです。一緒でなければいやです」
『困ったやつだな…』
 涙でかすむ目に、趙雲の顔が苦笑したように見えた。
 このまま趙雲とともにいたい。
 だが、それは自分には許されない…。
 姜維はやがて何事か思いつくと懐から短刀を取り出した。

 趙雲の部屋から出た姜維は、戸口に立っていた馬超に豪竜胆を見せた。
「これ、私には使えませんでしょうか」
 馬超はしばらく考えてから答える。
「子龍の豪竜胆か。よせよせ、お前の細腕には無理だ。形見として持っていきたいのなら…子龍も
喜ぶだろうがな」
「では、そういたします」
 姜維は少し困ったように微笑んで、豪竜胆を大事そうに抱え馬超に背を向けた。
 馬超は小さく首を傾げ、横にいた馬岱にこう尋ねた。
「姜維は…あんな目の色をしていたか?」

「姜維」
 豪竜胆を自分の荷物に片付けた姜維に、声をかけたのは孔明だった。
「我が軍の疲労は激しく趙将軍の葬儀もありますから、陣をたたみ、いったん成都へ帰還します。
全軍に伝えるように」
「かしこまりました丞相」
 いつもであったら孔明に抱きついて泣きじゃくるはずの姜維が、淡々とそう答え孔明の元を辞した。
 その姜維の髪に不自然に短い部分があるのを見た孔明は、羽扇の陰で小さくため息をつき空を仰いだ。
「趙雲殿…あなたはずるい方だ。あんなにも私を慕っていた姜維を連れていってしまった。あの姜維の目、
あれはあなたと同じ目だ…」

『なあ姜維…これからはお前と一緒なんだな…』
 姜維の耳にそんな声が聞こえた気がした。
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