空が高すぎて青い。
 雲ひとつない空を見上げながら、俺の心は子供のようにはしゃいでいた。
「姜維、馬超が美味い肴を持ってくるというんだが、今夜俺の屋敷で飲まないか? 馬岱も一緒に
くるというし」
 いつもいつも丞相にべったりとくっついている姜維だが、今丞相は主公とともに巡察に出ていていない。
 誘うのであれば今が絶好の機会だった。
「今夜…ですか?」
 だれに命じられたのか、竹簡を抱えた姜維が小さく首をかしげた。
 しばらく考えてからにっこりと笑う。
「この仕事は夕刻までに終わりますから、それからお邪魔いたします」
 別に馬超や馬岱の名を出してだますつもりじゃあない。
 ふたりきりになんてなれなくても、俺はこいつの顔を見ていたいから…ただそれだけだから。

 でも姜維はこなかった。
 約束を破るようなやつではないのにと、俺はうわべだけ上機嫌で馬超たちと酒を酌み交わしながら
苛立ちを募らせていた。
 そんなとき
「姜伯約様のお屋敷から使いの者がまいっております」
 俺は使いを宴席へは呼ばず、俺自身が玄関へ出向いた。
「おう。姜維殿はどうされた? みな待っておるが」
「それが…我が主は宮殿から戻られるなり熱を出され、ただいま臥せっておられます」
 熱? なにか無理をしたのか?
「そう…か。それではいたし方あるまい。大事になされよと伝えよ」
「はい、ありがとう存じます」
 俺は見舞い代わりに馬超の持参した菓子を包んで持たせた。
 宴席へと戻ったが、熱を出して臥せっているという姜維が気になってしかたがない。
 酔いつぶれて眠る振りをし、馬超たちをそのままに俺は裏から屋敷を抜け出した。
 用意させた馬で姜維の屋敷へと急ぐ。
 だが…屋敷には先客がいた。
 見たことのある馬車は丞相のもの。
「姜維…」
 本当に熱を出したのか、それとも急に帰られた丞相が訪ねてきたための方便であったのか…
俺にはわからなくなっていた。

「趙将軍はまだご結婚なさらないのですか」
 いつか新兵の訓練が終わったとき、身体を拭いていた俺に姜維が尋ねてきたことがあった。
「結婚?」
「はい。趙将軍はお強くて美丈夫でお優しいのにと、宮中の女官たちも噂しておりました。それとも
…想い人がおられるのですか?」
 いつものように明るい笑みを浮かべながらそんなことを言う。
 想い人…か。
「そうだな…いないわけではない」
 俺が苦笑混じりに答えると姜維は目を輝かせてきた。
「ええ? どなたですか? きっと趙将軍の選ばれる方だからさぞかしお美しいのでしょうね」
 今、目の前にいるんだ…。
「あれは…美しいというよりかわいらしいと言ったほうが似合うな。眼を輝かせてあどけなく
笑う顔が愛しい…」
「私の知っている方でしょうか? うーん…今は存じなくても婚姻の席や宴席に招かれたらきっと
お会いできますね」
「さあ、それはどうかな。かなわぬことだからな…」
 笑ってごまかす俺に姜維が答えをせがむ。お前のことだなんていえると思うのかい…?
「あっ、丞相」
 丞相の姿が見えたとたん、姜維の目はもう俺を見ていない。
 お前が見ている俺は将軍としての俺。
 私人としての俺はどれくらい見てくれている…?

 数日後、俺は厩で馬の世話をしている姜維にあった。
「あっ、趙将軍」
「もう熱は下がったのか?」
「はい。先日は申し訳ありませんでした。せっかく誘っていただいたのに…」
「いや、またいくらでも機会はあるさ」
 ひどく申し訳なさそうな顔で頭を下げる。
 その顔が一気に明るくなった。
「そうそう。趙将軍のお屋敷と丞相府に使いを出したら、巡察から戻られた丞相が見舞いにきて
くださったんですよ。疲れていらっしゃるはずなのに巡察先のお話とかたくさんしてくださって…
趙将軍にいただいたお菓子を一緒に食べたんです。私が将軍のお心遣いに感謝したら、丞相も将軍の
ことをいい人だとおっしゃってました」
 だれかに俺の話をするとき、姜維の顔はこんなに明るいだろうか。
 いや、姜維がこんなにいい表情で微笑むのは、丞相を想っているから…そう感じて俺の胸が
締め付けられるように痛んだ。
「姜維、馬を一頭連れていくぞ」
「はい。どちらへ?」
「少し遠乗りに…夕刻までには戻ると厩番に伝えてくれ」
「承知しました」

 俺は馬を走らせてだれもいない場所までやってきた。
 空が高い。
 俺はいつまでいい人でいられるんだろう。
 いつまでいい人でいなければならないんだろう。
 空の青が目に痛い。
 俺の目が青を吸い込んで水の色となって頬に伝うのがいやだから…俺は目を閉じた。
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