ウサギの卞氏が曹操の赤ちゃんを産みました。
 丕・彰・植・熊の4匹。どれも生まれたばかりでまだよちよち歩きがやっとの仔ウサギたちです。
 部下の動物を指示する曹操とは離れ、卞氏たちは信頼のおける護衛に囲まれて暮らしています。

 ある日のこと、曹丕はひとりだけでふらりと散歩に出かけました。
 いつも、卞氏や護衛と歩くのとは違う道…ちっちゃな曹丕の目には、見たことのないものばかりです。
 曹丕が小さすぎたこととほかの3匹に気を取られ…卞氏も護衛も曹丕がいなくなっていることに気づきません。
 やがて曹丕は、自分がみんなからはぐれてしまったことを知りました。
「ははうえ? みんな…どこ?」
 あわてて周りを見回しますが、曹丕より背の高い草にさえぎられてだれの姿も見えません。
 もし、こんなところを敵に見つかったら…肉食の動物に襲われたら…曹丕は帰ろうとしますが、帰り道が
わかりません。でも大きな声を出したらよけいに見つかってしまうかもしれませんし…どうしていいのかわからず、
泣き出しこそしませんでしたが曹丕は心細さでいっぱいになりました。
「ははうえ…ちちうえ…」
 あまりおぼえていない曹操の顔が浮かんできます。
 不意にガサゴソと頭上の枝が揺れました。
「おやや、迷子」
 そんな声が聞こえたかと思うと、曹丕の目の前に黒い影が躍りました。
「仔ウサギだね…お名前いえるかな?」
 曹丕の前にはヤマネコが座っています。
 優しい声音にちょっとだけ安心して、曹丕は正直に答えました。
「…しかん…そうしかん…」
「曹子桓…ああ、曹操さまの赤ちゃんか。どうしてこんなところにきたのさ?」
「…しらない…」
 ヤマネコの司馬懿は「迷子だね」と笑って、曹丕の顔をのぞきこみました。
「おうちまで送ろうか」
 これで家に帰れると思った曹丕はこくんとうなずきます。
「下の道は危ないからね。背中に乗せて、枝の上をいこう」
 そう言って曹丕を咥えようと大きな口をグワッと開けました。曹丕は驚き、食べられてしまうとおびえ始めます。
「あ、ごめんごめん。大丈夫だよ、食べやしないさ。ほら、痛くない痛くない」
 ご自慢の歯を立てないようにして曹丕を咥え、そっと自分の背中に乗せてやります。
「しっかりつかまっておいでよ。少し揺れるからさ」
 曹丕は司馬懿の首にキュッとつかまりました。とたんに風を感じます。
 司馬懿は軽々と飛び上がり枝に登りました。身体を撓め、枝から枝に飛び移って…曹丕にはこんなの、初めての
ことです。
 その司馬懿がふと止まりました。
 あたりの景色が飛んでいくみたいに見えて少し怖かった曹丕が、おそるおそる司馬懿を見ます。
「…どうし…」
「しーっ、声を出しちゃダメさ。下にね、蜀のやつがウロウロしてるからさ」
 そっと見下ろしましたが、曹丕には蜀の連中より自分がいる枝の高さのほうが怖いです。
 司馬懿の背中に顔を埋めて小さく震えていると、曹丕よりずっとずっと長くてしなやかな司馬懿の尻尾が伸びてきて、
曹丕を撫でてくれました。
「子桓さまの父上はね、こんな怖いことたくさん乗り越えてきたのさ。そうしてとても強いウサギになったのさ。だから
子桓さまもこれくらいで怖がってちゃダメさ。今はまだ小さいからいいけどさ」
「ちちうえ…」
 曹丕は今は遠いところにいる曹操に思いを馳せます。
「…しかん、ちちうえみたいに、なる…」
 小さな声に司馬懿はニイッと笑いました。
「子桓さまはいい子だね。それでこそ、この仲達が気に入っただけのことはあるさ」
「…ちゅうたつ?」
 初めて聞くヤマネコの名前に、曹丕は首をかしげました。
「そうさ、司馬仲達って言うのさ。曹操さまに言われて子桓さまたちのところへいく途中だったのさ」
 蜀の連中が見えなくなり、司馬懿は腹這いになっていた枝から立ち上がりました。
「お母さまが心配してるといけないからさ、ちょっと急ごうね」

 もう夕暮れだというのに曹丕が見つからないことを悲しんでいた卞氏は、いきなり目の前に現れたヤマネコを見て
悲鳴を上げました。
 でもそのヤマネコには見覚えがあって…子供たち、特に曹丕の近侍にと曹操から紹介されていた司馬懿だと気づき
ました。
「奥方さま、子桓さまをお送りしました」
 司馬懿の背中からよちよちと降りてきた曹丕を見つけ、卞氏が抱きしめます。
「ああ、ありがとう。あなたは曹操さまがおっしゃっていた…」
「司馬仲達です。こんなに早く子桓さまにあえるとは思いませんでしたよ」
 卞氏の胸からちょっと顔を出して、曹丕が尋ねました。
「…ちゅうたつ…ありがと。こんど、いつくるの?」
 司馬懿はまたニイッと笑いました。
「子桓さまがもうちょっと大きくなったらさ。そしたら仲達がいろんなことを教えるさ」
 そうして曹丕が初め見たときと同じようにしなやかな身体を躍らせて、枝の上に飛び乗りました。
 曹丕には、司馬懿の赤茶色い身体がとても綺麗に見えて…早く大きくなって、また司馬懿にあいたいと思うのでした。
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