ヤマネコの司馬懿は、ウサギの曹操の息子である仔ウサギの曹丕の教育係です。
「ちうたつ」
 でも曹丕の言葉は最近たどたどしくて、司馬懿のことをそう呼びます。
 その理由を司馬懿は知っていました。
 次男の曹彰は曹操の権力に興味がないのですが、三男の曹植にはキツネの揚修という教育係が
ついていて、どうやら曹操の後を狙っているようなのです。
 そんな弟の存在が重荷になって、曹丕の小さな胸を締め付けて言葉をさえぎっているようでした。
「子桓さま、仲達さ」
「ちうたつ」
 おいしい草の見分け方や詩を詠んだりするのは上手なのに、どうしてもうまく司馬懿を呼べません。
 そしてもうひとつ司馬懿が心配していることは、曹操から向こうにくるよう言われているのですが、
このままだと揚修が自分の留守中に曹丕を襲うような気がしてならないのです。
 それに…
「ちうたつ…」
 不安そうな曹丕が司馬懿にしがみついてくるのがなんとも言えずかわいくて、なおさら離れる気になれません。
「とは言うものの困ったね。このまま曹操さまのところへいかないでいたらまずいさ」
 なにしろのらりくらりとしている司馬懿のこと、曹操は司馬懿が自分が裏切ると思ってしまうかもしれないのです。
 考えあぐねた司馬懿はある友人に手紙を書きました。

 数日後のこと。
 曹丕がうれしそうに歯型のある葉っぱを司馬懿に見せます。
「ちうたつ、ちちうえから、おてがみ」
 めったにこない曹操からの手紙を見せて曹丕はうれしそうです。司馬懿もニヤッと笑いました。
「仲達にもお手紙きたさ」
 原っぱに腰かけてそんな話をしていたとき、不意に司馬懿と曹丕の周りを数匹のキツネが取り囲みました。
 司馬懿のしなやかなシッポに促され、曹丕はあわてて司馬懿のお腹の下に隠れます。
「お前たち、だれさ?」
 いつになくきつい口調で司馬懿が尋ねます。でもキツネたちは答えません。
「お前たち、この子がだれかわかっているんだね…もちろんこっちもわかってるさ。お前たちが楊修の
手先ってことくらい、さ」
 キツネたちは徐々にその輪を狭めてきます。
 さて、どうしたものか…司馬懿は考えをめぐらせます。
 自分だけなら逃げ足は速いですから簡単ですが曹丕がいます。キツネなど怖くありませんが戦うために
立ち上がれば、やはり曹丕が無防備になってしまいます。
 一番いいのは自分が盾になって曹丕を逃がすことですが、これだけの数が相手では曹丕が捕まってしまう
確率のほうが高そうです。
(なら…時間に助けてもらうさ。でも子桓さまは…)
 曹丕がおびえてはいないかと自分の腹をのぞきこむと、曹丕は司馬懿にしがみつきながらも小さな目に
決意を燃やしていました。
「しかん、こわくない…ちちうえと、いっしょになる…ちうたついるから、こわくない」
 曹丕は震えていません。
「偉いね子桓さま。じゃあ仲達も怖がったり逃げたりできないさ」
 そうして司馬懿はひときわ大きな鳴き声を上げました。
 ほとんど同時にキツネたちに躍りかかってきた者があります。あっという間に何匹かのキツネが喉を
噛みちぎられてその場に倒れました。
 大きな黄色と黒の縞模様…そこに虎の許チョがいました。
「おやや、許チョ殿」
 どうやらこれは司馬懿が人に呼びかけるときの口癖のようです。
「どうしたぁ仲達、キツネぐらい相手に寝そべったままなんて、お前らしくないぞぉ」
「あっはっは、いろいろと理由があるのさ」
 許チョが周囲を見渡し大きく吼えると、キツネたちはあわてて逃げ出してしまいました。
 ようやくキツネの気配が消えてから司馬懿は立ち上がりました。お腹の下から這い出してきた曹丕が、
許チョを見て驚きます。
「大丈夫子桓さま、お父上の護衛をしている許チョ殿さ。ほら、ご挨拶」
 曹丕はかすかに頭を下げます。その顔を許チョがのぞきこみました。
「うわあ、おいらが出会ったころの曹操さまそっくりだなぁ。かわいいかわいい」
 許チョの大きな前足が曹丕を撫でます。
「それより許チョ殿、あいつは連れてきてくれた?」
 許チョが振り向くと、その後ろから別のヤマネコが現れました。
「それじゃあ、おいらは奥方さまのところへいくぞぉ。またなぁ子桓さま」
 許チョがのそのそいってしまうと司馬懿はヤマネコを曹丕に紹介しました。
「子桓さま、陳長文さ。仲達はちょっとお父上のところへいってくるけど、そのあいだは長文が子桓さまに
いろいろ教えるさ」
 陳羣はうやうやしく曹丕に挨拶をしました。
「子桓さま、どうぞよろしくお願いいたします」
 曹丕はちょっと首をかしげました。
「ちょうぶん?」
「ええ、そうです。仲達から話に聞いていたとおり利発そうな方ですね…さて仲達、私もちょっと奥方さまの
ところへご挨拶にいってくるよ。詳しい話はまたあとでしよう」
 陳羣の姿が見えなくなってから司馬懿はちょっと頬を膨らませました。
 だって自分のことをちゃんと呼んでくれない曹丕が、陳羣のことはちゃんと呼んだのですからおもしろくありません。
「ちうたつ」
 曹丕にもその不愉快さは伝わったのか、少し心配そうに司馬懿を見つめます。
「仲達」
 司馬懿はため息混じりに繰り返します。
「ちう…ち…ちゅ…」
 曹丕は懸命に仲達を呼ぼうとします。
「そうそう、ちゅーたつ、さ」
「ちゅー…」
 思い切りとがらせた曹丕の唇が、司馬懿の鼻に触れます。これに驚いたのは司馬懿のほうでした。
「ちょ、ちょっとちょっと子桓さま」
 普段は冷静でのらりくらりといろいろなことをかわしている司馬懿のあわてようがおもしろかったのか、
曹丕は笑いながら何度も何度も司馬懿の鼻に、ちゅーと言って口を押し当てます。
「まったくもう…まるでお父上そっくりじゃないか。そんなふうに虜にしちゃうところなんか、さ」
 そう言って曹丕を背中に乗せると、卞氏のもとへと帰っていきました。
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