ウサギの曹操のところに、子供たちと卞氏が訪ねてきました。
「卞氏ちゃん、よくきたね」
 曹操は喜んでみんなを迎えます。
 でも曹丕だけは挨拶もそこそこに曹操に尋ねました。
「ちゅうたつは? ちゅうたつ、どこ?」
 数日前から曹丕の教育係であるヤマネコの司馬懿が、曹操のところにきているはずです。寂しかった曹丕は、
曹操のところへ出かけたら司馬懿に会えるはずだと思っているのです。
「仲達? ああ、仲達なら…」
 曹操の横にいる銀ギツネの荀ケは静かに答えました。
「司馬懿なら曹操さまのご命令で出かけております。曹丕さまがこちらにいらっしゃる間に戻ってきますよ」
 曹丕はちょっとがっかりしました。
 次弟の曹彰はトラの許チョにいろんなことを教わっていて楽しそうですし、曹植には教育係であるキツネの楊修が
ついています。末弟の曹熊は卞氏から離れません。
 曹丕だけがなんだかひとりぼっちになったみたいな気分です。
 ひとりでぼんやりと、司馬懿に会ったらなにを話そうか考えているとき、すぐ脇の草むらから声がしました。
 どうやら曹操の家来がしゃべっているようですが、曹丕が小さすぎて気づいていないようです。
「…それにしても、司馬懿殿も大変だよなぁ」
「ああ。曹操さまのご命令ってヒトのところへいくことだろ? よく平気だよなぁ」
「別のやつが見たらしいけどさ、司馬懿殿、ヒトに撃たれたって」
「ほんとかよ! でもなんで司馬懿殿生きてるんだ?」
「うーん…撃たれてもヒトのところで助けてもらうとか?」
 だれかがため息混じりに言いました。
「それなのにまたヒトのところにいくのか? そのうち司馬懿殿死んじゃうんじゃないのか?」
 曹丕はびっくりしました。
 司馬懿が死んでしまうかもしれない…いいえ、それ以前にヒトのところへいくなんて!
 ヒトの怖さは小さな曹丕だってよくわかっています。それを教えてくれたのは司馬懿ですし。
 曹丕は曹操の宮殿をこっそり抜け出すと、森の入り口へと向かって走り出しました。

 さて、司馬懿のことをお話しましょう。
 司馬懿はヤマネコの中でも珍しい種類のヤマネコです。それゆえ、どうやらヒトは司馬懿に危害を加えてはいけ
ないようです。
 最初、ヒトはあの手この手で司馬懿を捕獲しようとしました。捕まえて体長を測ったり生態を調べていたみたいです。
その調査は半年に一度行われ、司馬懿の耳には認識票がつけられました。
 司馬懿にとってはうっとうしいアクセサリーですが、これに目をつけない曹操や荀ケではありません。
「司馬懿がいればヒトも我々に手出しできぬでしょう。他の者からの脅威も気になりませんし」
 だから司馬懿は森の木の葉の色が変わると、自分からヒトのところへ出かけていくようになりました。
 初めてのときはヒトもどうしていいのかわからなかったため、司馬懿を麻酔銃で撃ったりしましたが最近では
司馬懿のほうから出向いてくれるので、手荒な真似をしません。
 いちおう薬の入ったエサや罠が仕掛けてはあるのですが、賢い司馬懿としてはそんなものに引っかかるのは
プライドが許さないのです。
 それに初めて捕まったとき、ヒトのところに同属がいたので話しておきました。
「あー痛かった…ねえ、あのヒト、君の飼い主でしょ? こっちが素直になるからもう銃で撃ったりしないでほしいって
伝えてくれないかな」
 ヒトに飼われているネコはコクコクとうなずきました。
 まあ、そのネコの名前がモウトクといい、ヒトは森林保護官だってことはどうでもいいことですがね。
 司馬懿がヒトのところにいるのはほんの数時間ですが、ヒトの手が触れることによってヒトの匂いがつくのが
いやなので、あちこちで泥まみれになったりして帰ってくるので遅くなるのです。
「あのヒトは乱暴にしないからけっこう好きさ。なんだかこっちの言葉も理解してるみたいな感じだし」
 そんなことをつぶやきながら森に帰ってきました。
 入り口を抜け、木に上がって枝を渡っていこうかと考えていたときです。
 司馬懿の目の前に小さなものがうずくまっていました。
「おやや…子桓さま?」
 曹操の宮殿からここはずいぶんと離れています。
 司馬懿が心配で走ってはきたものの、森から出るのは怖いし…考えているうちに疲れてしまったようでした。
「どうしたのさ? こんなところで…」
 聞きなれた声といつもののんきそうな笑顔…安心したのと心配したのが一緒になって、曹丕の鼻の奥がツンと
痛くなりました。
「め…めー…」
 泣きじゃくりながら小さな拳で司馬懿の身体をポカポカと叩きます。
「子桓さま、どうしたのさ。そんなに叩いたら痛いよ」
 本当は痛くなんかありませんが、いちおう気を遣っておきます。
 しゃくりあげてとぎれとぎれの曹丕の言葉が聞こえてきます。
「ちゅうたつ…めー…ヒト…とこ…いった…めー!」
 どうやら、ヒトのところへいってはダメと言っているようです。
「あーそっか。子桓さま、仲達のこと心配してくれたんだ。大丈夫さ、心配ない」
 司馬懿の前足が曹丕の頭を撫でますが、曹丕は納得しません。
 涙で濡れた真っ赤な顔で、足を踏み鳴らしながらまだ怒ります。
「め…めーれー! いったら、だめ! しかんの、めーれー!」
 いつのまに命令なんて言葉を覚えたのでしょう…司馬懿はどきりとしました。
「ちゅうたつ、いない…しかん、ひとり…」
 まだ嗚咽が止まらなくて言葉が途切れます。
 それでも司馬懿には曹丕の気持ちが充分伝わりました。
「うん…子桓さまの命令、きっと守るさ…そしてずっと子桓さまのそばにいるさ…」
 司馬懿の長くてザラザラした舌に舐められ、曹丕はちょっと顔をしかめました。
「どうせ子桓さまのことだから、だれにも内緒で出てきたんでしょ。さあ、みんなのところに帰ろうか」
 曹丕を咥えて背中に乗せ、曹丕よりずっと速く走り出します。
 次にヒトのところへいくのは半年後。そのころには成長した曹丕が事情をわかってくれると信じて。
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