趙雲は天水の戦いの後、先に成都へ戻った諸葛亮に命じられて砦の守備蜀に就いていた。
 戦の際にはかなり騒がしい場所だったが、先日ようやく復興を果たしたばかりだ。
 ある雨のひどい夜のことだった。
「なにやら外が騒がしいようだな」
 小さな城の中、文官と話していた趙雲はふとつぶやいた。
「門の衛兵に尋ねてまいりましょう」
 そう言って座を外した文官はしばらくの後に戻ってきてこう報告した。
「戦のあとということで、盗賊が横行しているようです。治安の悪さが問題でございますな」
「ふむ、盗賊か…」
 戦のどさくさに紛れて、山賊たちが山を離れ略奪を働いているというのは聞いたことがある。
趙雲にとって胸を痛めていることのひとつだった。
「早く乱世を鎮め、民を幸せにしていただきたいものだ」
「まったくでございます。では、私はこの文を使者に渡してまいりますので…」
 文官が出ていってから、趙雲は先ほどから感じていた気配に向かって声をかけた。
「そこの者…そろそろ出てきてはどうだ?」
 窓の外の植え込みがガサガサと動き、ひとりの端整な顔立ちをした青年が立ち上がった。
 青年は口元に笑みさえ浮かべている。趙雲はすぐにこの青年の正体がわかった。
「…天水の麒麟児殿か…」
 趙雲も微笑んでいる。
「さすがに長坂の英雄殿にはおわかりですか」
「丞相に突き進んでこられたときに顔は…もっとも、今はあのときよりはるかに穏やかだが」
 姜維は声を出して笑った。
「戦は終わり、私は敗軍の将として天水の城を追われました。今さらなにを狙う必要が」
 そうして自嘲気味な笑いを続けながら、己の首を軽く叩いた。
「首を刎ねられるか? 好きになされるがよい。天水に持っていけば褒賞が出るやもしれませんぞ」
 戦が終わってからずっと逃げ回っていたのだろうか。姜維の髪は乱れ、衣服も破れ放題である。
 敗軍の将とはいえ、その才能を惜しんだ諸葛亮から姜維を探すようにも命じられている。
 それにしても…と趙雲は思う。
 覚悟をきめた人間というのはこんなにも清々しい表情をするものだろうか。それも泥にまみれていながらも
美しい笑みを浮かべて。
「丞相よりそなたを探すよう命じられていた。こちらへ入ってまいられよ」
 それから趙雲は奥に向かって呼ばわった。
「だれか!」
 近侍がすぐに飛んでくる。
「この方に湯を使わせ着替えを。その後食事を与えて休んでいただくように」
 姜維は黙って頭を下げ、近侍の案内で中へと入った。
 趙雲は腕を組んで考え始める。
(もはや逃げられぬと悟りここへこられたのならば、すでに追っ手があの方を見つけたと考えるべきだろう。
早々に丞相にお知らせせねば)
 翌朝、門のところには趙雲の想像通り、天水からの使者がやってきていた。
「どうやら知られていたようだな」
 趙雲に連れられ表に出てきた姜維は、その光景に一瞬息を呑んだが趙雲に向かって深々と頭を下げた。
「まあ、しかたがないでしょう。私はどうやら天水太守にとって謀反者らしいですから。それよりも…昨夜は
ありがとうございました。最期に人の情に触れられうれしく思います」
「早く出てこられよ、姜維殿!」
 使者の怒鳴り声がする。それをかき消すように趙雲の大きな声が響いた。
「待て、下郎! その方は引き渡さぬ!」
 怪訝そうな姜維を背後にかばい、趙雲は腐り始めた雑兵の首を取り出した。
「これを持ち帰れ。これが姜維殿の首だ。それに納得がいかぬというなら、この私が相手をしよう」
 使者は一歩踏み出そうとしたが、相手が長坂の英雄とわかると退いた。
「納得したならばもう用はなかろう。とっとと立ち去るがよい」
 使者が衛兵に追い立てられ、あたりの人間が立ち去ってしまってから姜維は小さな声で問うた。
「なぜ…私を助けようと…?」
「丞相のご命令で…」
 趙雲は優しく微笑んで言葉を続けた。
「いや、それ以上に私がそなたを気に入ったからかな。私とともに蜀のため、戦ってほしい…そう思ったからだ」
 しばらくあっけに取られた表情のあと、姜維は穏やかに微笑んだ。
「諸葛亮殿も…あなたも、物好きな方々だ…こんな私を気に入ってくださるなど」
 そうは言いながらも姜維の目は少し潤んでいるように見えた。

 数日後、中庭を散策していた姜維に趙雲が声をかけた。
「姜維殿、少しよろしいか」
「なんでしょうか」
 趙雲は少し考えてから、思い切って口を開いた。
「私の…副将になってほしい」
 思えばあの日、姜維が自分のところに逃げ込んできたのは、天が姜維を近づけさせてくれたのではないだろうか
…そんな気がする。
「唐突で申し訳ないとは思うが、どうも私の軍には優秀な槍使いがいないのでな。よければ任に就いて欲しい」
 姜維はなにも問わず軽くうなずいた。
「私のような若輩者でよければ…あなたの命に従おう。いや、今からは私の上官か」
 そう言って改めて頭を下げた。
「趙将軍、どうぞよろしくお願いいたします」
 趙雲は諸葛亮より先に姜維を手に入れられたことを喜び、姜維もまた趙雲と出会えたことに喜びを感じていた。
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