姜維が趙雲の副将となって半月ばかりが過ぎたころ、近くの村を山賊が襲うという事件が起こった。
 おそらく天水の戦の残党あたりではないかと思われる。討伐隊を組織するに当たり、趙雲に代わり
姜維を主にした隊をという声が上がったが、姜維はそれを辞退した。
「しかし姜維殿がいれば、魏の者ならばすぐに退くと思うが…」
「せっかくですが…昔の友軍(とも)に槍を向けるのは好みません」
 言葉を濁すでもなく、毅然と言い放つ姜維に趙雲はとまどう。
「まあまあよいではありませんか」
 声をかけたのは魏延だ。
「姜維殿のお気持ちもよくわかります。この魏延がまいってはご不満ですかな」
 たかが山賊の討伐、魏延がいれば十分だろう。
 結局、この一件は魏延が片をつけ収まった。

 ある日のこと、魏の軍が近くにいると聞き、趙雲は魏延と出陣することとなった。
「姜維殿、今回は一緒にきてくださるか」
 趙雲が尋ねるが姜維は横に首を振る。
「趙将軍がお留守となれば、私ならその隙を狙ってここを落とします。私はここに残り護りましょう」
 またか…姜維はそんなに自分と戦場に出るのがいやなのだろうか…。それとも趙雲自身を嫌って
いるのだろうか…。
 そんな考えがいくつも頭に浮かんだが、今は公私を混同している場合ではない。それ以上言わず、
趙雲は出陣していった。
 魏軍とは名ばかりの名もない将兵に率いられた敵は、趙雲と魏延の前にあっけなく蹴散らされた。
「お帰りなさいませ、将軍…おや、お怪我をなさったのですか?」
 趙雲の腕に巻かれた布を見て姜維が近寄る。
「ふふ、あまりの平穏な毎日で少々腕が鈍ったようだ。雑兵の槍がかすった…」
「しかし…」
「心配なさるな、姜維殿」
 それでもなにかを思った姜維は夜になってから趙雲の寝室を訪れた。
「将軍、姜維ですが入ってよろしいですか?」
「ああ…」
 姜維は深々と一礼してから趙雲の前に座った。
「本当に大したお怪我ではありませんか?」
「大丈夫だと申し上げた。私はそんなに弱くはない」
 珍しい趙雲の冗談だったが、姜維はほんの少し笑っただけですぐに真顔になった。
「私のことを…不信に思われておいででしょうな」
「しかたなかろう。そなたは先日まで魏の将軍であった方、斬れというほうが無理な話だ」
 姜維が自嘲気味に笑う。
「天水の兵が、みな太守に見えて…斬り殺したいのに、見るのもおぞましい気になり…戦えぬのですよ」
「姜維殿?」
 姜維は自分の手を眺め、ややあってからその手で顔を覆った。
「私は本来ならばあなたになど近づけない…いや、麒麟児などと呼ばれる謂れなどないのです。諸葛亮殿も
あなたも、私のことをご存じないから…っ!」
 怪訝そうな趙雲に口を挟ませず、姜維はそのままわめくように言い散らした。
「この手も、この身体も、この心も…穢れていないところなどどこもない。私は生きていることすら許されない
はずなのに…っ」
「姜維殿!」
 放っておいたらこのまま自分で自分を壊してしまいそうに見えて…趙雲は思わず姜維の手をつかんでいた。
「だれもそのようなことは思っていない。私はかつて袁紹に身を寄せ、魏延殿も韓玄に身を寄せていた。
そなたも魏の人間であったことを後ろめたく思うのだろうが…」
「違う! あなたは…あなたはなにもおわかりになっていない!」
 姜維はそう叫び、立ち上がって部屋を出ていってしまった。
 あとに残された趙雲は、姜維の心を計りかね首を振るばかりだった。
 翌日の夜、再び姜維がやってきた。
「将軍、少しお話をしてよろしいですか?」
 昨日とは打って変わって穏やかな声音に、趙雲は姜維を手招きした。
「なにか昔話でも? 昔の戦の話くらいなら…」
 姜維は首を振った。
「いいえ。将軍のお話は魏延殿からもお聞きしています。それに…」
「それに?」
「将軍は阿斗様という方のことばかりお話ですから」
 趙雲は一瞬息を呑んだ。
「今の劉禅様のことですね。私とは違い…純粋でいらっしゃる方だ…」
 いつか趙雲が長坂で助けた劉備の子、現君主の劉禅は幼いころから趙雲を慕っていた。そしてその思いは
やがて趙雲を父のように、兄のように、そして…愛しい者のようにと変わっていった。
「バカな…いきなりなにを。劉禅様は関係ない」
 そうごまかそうとしたが姜維の目はしっかりと趙雲の目を見据えていて、その心まで見透かしているようだった。
姜維がしがみついてきた。
「将軍、私はあの夜あなたに助けていただいたときからずっと考えていました。恩あるあなたになにをお返し
できるか、と…あの太守に囚われて忌まわしい思いを断ち斬ろうにもできず、戦で恩を返せぬならこれしかないと…」
 姜維は一度趙雲から離れると、怪訝そうな趙雲を無視してするすると着ているものを脱いでしまった。
手を触れるのがためらわれるような綺麗な青年の身体がそこにある。それは…趙雲の中で阿斗を思い出させた。
 それと同時に、わずかに残る古い傷跡に気づいた。
「これ、は…」
「これが天水太守の忌まわしい傷です。私はただ魏を裏切ったのではない。あの男の寵愛をも裏切ったのです」
 それで趙雲にもようやく、天水太守が執拗に姜維を追う理由がわかった。
「私に鞭を振るうのが好きな男でした…あなたに優しくされた恩をお返しするのに首を差し上げたかった。しかし
それが叶わないとわかった今、私があなたに差し上げられるのは私自身だけなのです」
 そうして趙雲の隣りに座り込んだ。
 甘い体臭に趙雲の理性が飛びそうになる。それをなんとかこらえ、姜維を引き剥がそうとした。
「穢れた者はおいやですか」
「そうではない。そうではないが…」
「あの夜優しい声をかけていただいたときから、私は将軍を思っていました。私の気持ちは…おいやですか?」
 同性である姜維を抱くことは天に叛くこととなるだろう。それならば君主の子である阿斗を抱いたとき、すでに
叛いていたはずだ。
 それに…趙雲が姜維に抱いていた感情は、本当に副将としての信頼だけだっただろうか…いや、言いきれない。
それ以上の気持ちで趙雲は姜維を愛している。
 しばらくのあと、趙雲は姜維をしっかりと抱きしめた。
「俺は自分を止められない。姜維殿、俺とともに堕ちてくれるか」
 姜維の返事は決まっていた。
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