胸の奥がもやもやする。
(あの方が…劉禅…阿斗様…将軍がよくおっしゃっていた…)
 劉禅と趙雲のあいだにどんなことがあったのか、今は知りたくない。
 そしてわかったとしても、趙雲の心から劉禅を消すことはできないだろう。
 でも…趙雲が姜維を愛していることが偽りだとは思いたくなかった。
「あ…?」
 ぼんやりと考えごとをしているうち、広い宮殿の中でまた迷ってしまった。
 どちらへいったものか悩んでいると建物側から声がした。
「おや、そこにおられるのは…」
 白羽扇を揺らして孔明が立っている。
「…丞相…」
「姜維殿、このような時間にどうなさいました? 迷われましたか?」
 姜維は恥ずかしそうにうなずいた。孔明は優しげに微笑み、白羽扇で手招きした。
「ふふ…ここは私のための部屋の庭です。入っていらっしゃいませんか? 菓子か…酒でもいかがです?」
 別に餌に釣られたわけではないがどうやらここは行き止まりのようで、孔明に案内してもらって帰るのが
一番だろうと考えて姜維は部屋に上がった。
 孔明の部屋には所狭しと書が積まれており、調度品もそれほど豪奢ではない。丞相という肩書きに比べれば
あまりにも質素な部屋に、姜維は少々驚いた。
「なにか珍しいですか?」
 いつしかきょろきょろしていた自分を恥じて姜維は真っ赤になる。
 その様子が微笑ましく、またあまりにかわいらしいのでつい孔明は意地悪をしたくなってしまう。
「天水で拝見しましたが、姜維殿も兵法には通じていらっしゃるようですね」
「いえ…丞相ほどではありません」
「いえいえ、私を追い詰めたあの策と度胸、さすがでした。でも…このようなことはご存知ですか?」
 そう言って孔明は一本の軸物を持ち出してきた。
 解いて姜維の座っている机の上に広げていく。端のほうに『男女交合之図』とあった。
「あっ…あの…こっ…これは…」
 それは男女の枕絵だった。細かい部分まで細密に描かれた絵に姜維の顔はこれ以上ないほどに赤くなっている。
「おや、このようなものを見るのは初めてですか? そうですね、将軍は厳格な方ですから」
「わっ、私は…これにて失礼いたします…」
「お帰りになるのはよろしいが、また迷いますよ」
 意地の悪い言葉に姜維は途方にくれる。孔明はくすくす笑って姜維の肩を叩いた。
「少々いたずらが過ぎましたか。ああ、そんな泣きそうな顔をなさらないでください。私が将軍に叱られてしまう」
「し、しかし丞相が…」
 姜維は袂で顔を覆い、少しばかりすねた目をする。
「ふふふ…本当にあなたはかわいらしい方ですね。将軍でなくとも大事にしたくなりますよ」
「じょ、丞相?」
 いつのまにか孔明の手が姜維の身体を捕らえていた。
 文官とは思えないような力で、そのまま姜維を設えてあった褥に押し倒す。
「な、なにをなさるのですか」
 その行為の意味を問うより先に、身体中からぞくぞくするような快感がかけ上がってきた。
「年若い青年の身体というのは美しいものです…あなたによいことを教えてあげましょうね…」
 孔明のつぶやきを耳元で聞きながら、姜維は与えられる快感に抗えず翻弄されていくだけだった。

 闇の中に劉禅の白い身体が浮き上がっている。寝台に腰かけた趙雲はそれを見ながら、まだ拒んでいた。
「将軍…なにをしておる? 早う…」
「…いけませぬ、劉禅様」
 劉禅は裸のままで趙雲にむしゃぶりついた。
「なぜじゃ。なぜ、もう朕を抱いてはくれぬ?」
「何度も申し上げました。あなた様はもう阿斗様ではありませぬ。君主・劉禅公嗣様なのです。もう…私が手を
触れてはいけない方なのです」
 目を閉じて趙雲にしがみついていた劉禅が憎々しげな声を出した。
「…あの副将か…?」
 一瞬趙雲の身体がこわばる。
「朕にはわかる。そなたの目はもう朕を見ていない。そなたがあれを見ているときの目は慈愛に満ち満ちていて…」
「将たる者が部下を思うのは当然でございます」
「嘘じゃ。朕は…朕はだれからもそのような目で見られたことはない。父上にさえも、じゃ」
 思い返してみれば劉備はいつも忙しい父親だった。
 それゆえ親子の触れ合いなどあったのかどうかもわからず、劉禅にしてみれば孤独な幼少時代であったことは
間違いない。
「…そなたの、あの者を見る目は、なんだか違う…あの者を抱いたのであろう?」
「…姜維殿は…我が副将でございます」
 嘘はついていない。答えないだけだ。しかし趙雲の言葉だからこそ劉禅はその言葉を信じた。
 趙雲の胸で小さくうなずくと、そのたくましい胸に歯を立てて思いきり噛んだ。鋭い痛みを趙雲はこらえる。
「…あの者と寝たら…殺すからな」
 そうして手早く衣を身に着け早々に趙雲を追い出すと、庭へ駆け下りた。涙を流しながら植えてある桃の木に
拳を打ちつける。
「丞相の…丞相の嘘吐きめ…子龍将軍はいつまでも朕といてくれると言ったのに…将軍の裏切り者め…もう…
もう朕はだれも信じぬ。丞相の言うことなど…ニ度と聞かぬ…」
 劉禅の心は堅く閉ざされた。
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