半月あまりが過ぎたころ、呉軍が白帝城へ向かっているという知らせが入り、孔明はすぐに兵を送ることにした。
白帝城には先帝劉備の廟があり、落とすわけにはいかない地であった。そしてその中には当然、趙雲と姜維の名も
ある。
 しかしそれに異を唱えたのは意外にも劉禅だった。
「丞相、此度の出兵、朕は納得いかぬ」
「は…では劉禅様はいかがお考えに」
 おそらく趙雲を残せという意見だろうと孔明は考える。だが劉禅の口から発せられたのは思いがけない言葉だった。
「趙将軍の副将…あの者は先帝を知らぬであろう。朕はそのような者に先帝の廟を護らせたくはない。置いてゆけ」
「な…! お待ちください劉禅様!」
 遮ったのは趙雲だった。
「確かに姜維殿は先帝を存じてはおりません。しかし私と同様の武を持つ姜維殿はぜひとも必要で…」
「ならば、なおのこと」
 劉禅も退く様子がない。
「長坂の英雄たる趙将軍をはじめ、魏延や黄忠まで出陣すると申すではないか。ならばこの手薄になった成都は
どうなるのじゃ。いかに留守居の馬超が猛将と言えど、ひとりではどうにもならぬであろう。その者が真に猛将ならば
この成都と朕を護らせよ…朕が暗愚とて軽んずるな」
 そう言われてしまってはどうにもならない。
 劉禅の言葉に従わなければ、劉禅を暗愚と認めてしまうことになる…孔明はやむなく姜維を外し、暫定的に魏延を
趙雲の副将に就けた。
 兵たちが出立の準備で右往左往し、絶え間ない喧騒の中に趙雲が馬にまたがりやってきた。
 その様子を欄干から眺めていた姜維は、隣りに立つ孔明に聞こえるか聞こえぬかの声でつぶやいた。
「ずいぶんと…憎まれたものですね」
 ふと顔を上げた孔明の先に兵を見送る劉禅の姿があった。劉禅の、趙雲と姜維を見つめる目にはひどく恐ろしいものが
ある…ややあってから姜維は劉禅の目をしっかと見据えた。
(あなたと将軍のことなど問わない…でも、私も将軍のことを思うております…)

 成都への留守居を命じられたのは、馬超と姜維、それから孔明であるが、孔明は毎日情報の収集や日常の執務に
追われて忙しい。姜維もある程度は手伝っているが、ほとんどの裁定は孔明が下すためあまり仕事はなかった。
「ふむ…留守居というのは退屈なものだな」
 姜維とともに宮殿に出仕した馬超は小さく欠伸をしながらつぶやいた。
「しかし、ここの警備が手薄になっていることは魏軍も承知のはず。気を抜かれては困りますよ」
 孔明がやんわりとたしなめる。
「はは。魏軍なぞ恐るるに足りませんな。腰抜けどもは我が名を聞いただけで逃げるそうで…」
 馬超の笑いはどこか乾いていて…西涼の神威将軍と呼ばれ、強くなりすぎた男の哀しさがあった。
「今となっては俺と槍を交えようという者もおりませぬ。関羽殿が生きておられたら…」
 関羽は以前、成都へ戻ったらぜひ一度噂の馬超と腕比べがしたいと劉備に訴えていた。しかしその願いも今はもう
かなわない。
「いや、つまらない話をしてしまいましたな。丞相殿、俺は外を一回りしてまいります」
 馬に乗り宮殿を出たところで姜維が追いかけてきた。
「馬将軍、私もご一緒してよろしいですか」
 馬超は趙雲の屋敷を何度も訪れ、酒を酌み交わしては互いの戦話に花を咲かせていた。またそのときには姜維も
呼ばれて宴に参加させられ、姜維の中で馬超は趙雲と同じように敬愛する存在となっていた。
 ふたりは轡を並べ宮殿から城下を抜け城門にそって歩いていく。
 先ほどの話に落ち込んだのか、馬超の姿は少々寂しそうにも見える。姜維はそっと馬超の手に手を絡めた。
「…姜維殿」
「馬将軍、昔の戦話などお聞かせ願えませんか。今、この並足の間だけでも」
 馬超は姜維が愛しくなり、その頭をかき抱いて撫でてやった。
 呉軍と対峙した蜀の軍勢は連戦連勝、成都へも吉報ばかりが入ってきて孔明はもちろんのこと、暇を持て余している
馬超以外は喜んでいた。
「姜維殿、そなたもうれしいか」
「はい。早く戦が終われば将軍も早くお戻りになられますから」
 目を輝かせて趙雲の話をする姜維が憎らしくさえなってくる。
 姜維の笑顔を趙雲だけのものにしておきたくなくて…姜維を自分のものにしたくて…つい口をすべらせた。
「そなたは趙雲殿の話しかしないのだな」
「え? そ、そんなことは…」
「将だというのにまるで想い人のような話し方をする…」
 自分の顔はどのようになっているだろう。嫉妬にかられた悪鬼のごとき形相になっているのではないだろうか。
そんなことを思いながらもいったん飛び出した言葉は止まらなかった。
「こんな話を知っているか? 趙雲殿と王太子様の話だ」
 劉禅と趙雲の話なら、自身の口から聞いたことはある。劉禅の名を出されて姜維は少々とまどい気味に答えた。
「…阿斗、様ですね。その話は将軍からも聞いております。けれど主従とはそのようなものなのでしょう?」
「普通の主従ならばな。だが王太子様は趙将軍をまるで男妾のように扱い、夜毎部屋に呼びつけて愛を交わしていた。
そして将軍もまた…」
 姜維の身体が硬直する。風がザアッと吹いて花びらを舞い散らすとほとんど同時に姜維は走り出していた。
 知りたくはなかった。気づいていても…だれかの口から聞きたくはなかった。
「待ってくれ、姜維殿!」
 それを追いながら馬超は後悔していた。
(ああ、俺は…俺はなんということを話したんだ。こんな…趙雲殿を貶め、姜維殿を悲しませるようなことを…)
 広い庭の端、築山横に造られた泉の前に息を弾ませている姜維を見つけた。
「姜維殿…すまん。俺はどうかしていた…」
「いいえ…劉禅様の将軍を見る目を見ればわかります…」
「俺は趙雲殿を貶めるような言葉まで吐いた。俺はどう償えばいい?」
 うつむいた姜維は黙ったままで頭を振るばかりだった。
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