それはほんのささいなこと。
 竹簡を持った姜維がだれもいない執務室から出るのと、孔明が留守であるのを知らないで執務室を
訪れた馬超が、お互いよそみをしていたためにぶつかった…単にそれだけの話。
 だったはずなのだが、それがややこしくなってしまったのは、勢いのついていた馬超が姜維の上に
覆いかぶさる形になり、一緒にひっくり返った姜維の足が執務室の扉を閉めてしまったから。
「ちょ…馬超さん、重いです〜」
 瞬間、唇が軽く触れ合ってしまったことに照れながら、姜維は馬超を押しのけようとする。
「あ、ああ、すまん。ちょっと待ってくれ」
 馬超は、姜維の唇の柔らかさを記憶するように、こっそりと自分の唇を舐め起き上がろうとした。
 しかし、なにか抵抗がある。
「や…っ、痛いっ!」
 姜維の髪が馬超の冠に絡まってしまったらしい。
 そのために馬超が身体を起こそうとすると、姜維の髪が無理に引っ張られ痛いのだ。
「う、動くな姜維。ちょっと待ってろ」
「い、いやです。こんな…こんなところをだれかに見られたら…」
 今この場に孔明が戻ってきたら、どう言い訳したものかわからない。
「そんなことを言ったって仕方がないだろう! 外してやるまで待て」
 一本や二本なら力まかせに抜いてしまうこともできるのだが、そんなに少ない量ではないようだ。
 馬超がもたつき、変に引っ張られるたびに姜維は泣き声をあげた。
「姜維、おとなしくしろ」
「やあっ! い、痛いですっ…ああ、早くしてくださいっ」
 鎧の鉄板と鉄板のつなぎ目、そんなところにまで絡んでしまっている。
 しまいに馬超はイライラし始めた。
「ああ、もう! くそ、なんだってこんなところに入るんだ」
 身長差があるのだから仕方がないのだが。
「だ、だって馬超さんが大きいから…いたぁい! もうちょっと…もうちょっと優しくして!」
 そのときになって初めて、馬超は自分の腰に短刀が下がっていたのを思い出した。
 それで姜維の髪を切れば問題は解決するはずだ。
「いやっ、痛い…動いたらやだぁ!」
「もう少しだから…我慢しろよ、な?」
 姜維の頭を片手で支えながら、もう片方の手で短刀を引き抜く。
「動くなよ。今度動いたら痛いじゃすまないからな」
 姜維はうなずいて馬超の手元が狂わぬようにと目を閉じた。
「よっ、と」
 軽い音がして頭が楽になる。
 目を開けた姜維は自分がどんな格好になっているかを改めて見、再び顔を赤くした。
 両足のあいだに馬超を迎えた形で馬超にしがみついている…あわてて飛びのいた。
「なんかそこだけ不恰好になっちまったな」
 髪を切った部分はそんなに目立つのだろうか。
 だが今は一刻も早くこの場から立ち去ってしまいたい。
「あ、ありがとうございましたっ」
「あっ、おい!」
 竹簡が一本残っているのを見て声をかけたのだが、姜維はいってしまった。
 馬超は頭をかきながら立ち上がり、孔明がいないのでは話にならないと自分も執務室を退出した。

 さて、ふたりだけしか知らないはずのこの事故を、偶然にも聞いてしまった人間がふたりほどいた。
 ひとりは劉備の元から執務室へ戻ってくる途中の孔明で、もうひとりは馬超と同じく孔明に用が
あって執務室を訪れようとしていた趙雲である。
 ふたりは回廊の両端からやってきていたため、お互いのことは知らない。
 そして鉢合わせする前に、執務室の壁を通して漏れてきた姜維と馬超の声に一瞬硬直し、
それきり動けなくなってしまったらしい。
 趙雲の場合は、そこへ退出した馬超がやってきたものだからえらく不機嫌になってしまった。
「おう趙雲、今、丞相は留守らし…って、なんでお前、俺をにらんでるんだよ」
「いや、別に。気にしなくていい。ただ、嫌がる相手を無理矢理押し倒しての所業はどうかと考えて
いただけだ」
「はあ?」
 そういえば昨夜、こっそりと女官を呼び出して遊んだが…それが趙雲は気に入らないのだろうか。
 馬超はそんなことを考えて弁明した。
「いや、俺は嫌がる相手を無理矢理などしたことはない。あれはちゃんと相手も合意の上だったからな」
「ご、合意の…!」
 姜維は孔明が好きで、自分も姜維が好きで…その姜維が今度は馬超にも思いを寄せたというのだろうか。
 趙雲は内心穏やかでなくなってしまった。
「失礼する。今日はとても丞相に目通りなどできない」
「あっ、おい、趙雲!」
 呼び止める馬超を無視し、趙雲はすたすたと立ち去ってしまった。
「なんだよあいつ…あいつにもあんなところがあるんだな…」

 しばらく時間が経ってから、姜維は竹簡が足りないことに気づき、執務室に戻ってきた。
 そこにはすでに孔明が戻っており、その表情は少し厳しい。
「す、すみません丞相。あわてていて落としたのに気づきませんでした」
「いいのですよ、姜維」
 冷静を装うとするがやはり気になってしまう孔明は、何度も何度も書類を書き間違えた。
「丞相、お疲れなのではありませんか? 少しお休みになられては…」
 孔明の身体を気遣い、姜維は声をかける。
 自分の心にくすぶる嫉妬をどうしようもできず、孔明はとうとう口を開いた。
「姜維こそ…大丈夫なのですか」
 あの馬超がのしかかってきたのでは、姜維も抵抗できなかったのではないだろうか。
 声を聞いた限りでは無体なことをされたようにも思える…孔明がハラハラしながら尋ねる。
 姜維は、このところ孔明の手伝いで夜更けまで竹簡に目を通すなどのことが多かったので、孔明が
自分の身体を案じてくれているのだと思った。
「私は平気です。慣れておりますし、好きでやっていることですから」
「な、なんと…!」
 こんな無邪気な顔をしていながら、姜維にはまだ自分の知らない一面もあるのだろうかと思うと、
孔明は憂鬱になってきた。
「私は…少し休みます。だれも近づかぬようにと」
「はいわかりました。ごゆっくりお休みくださいませ」

 天はときとしてこんな悪戯をするものらしい。
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