動物病院からブンエンが退院してきました。
 でもゲンジョウはまだ病院から出られません。
 傷は十分に癒えているのですが、モウトクのことを考えると元気になれないのです。
 そんなわけでブンエンはミョウサイの家に預けられています。
 自分とゲンジョウを傷つけ、モウトクを奪ったシュンガイのことは決して許せません。
 だからシュンガイが近づこうものなら、激しく唸って威嚇するのでミョウサイも少し持て余していました。
 ある朝のことです。
 眠っていたブンエンが気配で目を覚ますと、そこにシュンガイが立っていました。
 唸って追い払おうとするのをシュンガイが小さく静止します。
(先日のことは悪かったと思っている…)
(なにを今さら…貴様のせいで私の主人が傷つき、小さなネコも消えてしまったのだぞ)
 なじるようにそう言うとシュンガイは少し頭を下げて言いました。
(そのネコのことだ。今朝は私と一緒に散歩にいってくれないか…実はあのネコを見つけたのだが私では
連れてくることはできない。だが心を許している貴様ならばきっと連れてこれる。もしかしたら…これが最後の
チャンスになるかもしれないのだ)
 ブンエンにとってはシュンガイがモウトクを探してくれたことは意外でしたが、最後の言葉に引っかかりました。
(なぜ最後なのだ)
(ネコというのは我々と違って忘れやすいものなのだ。あのネコが主人のことを忘れてしまっては…いかんだろう?)
 そういうことなら急がねばなりません。
 ブンエンは起き上がると自分用のリードを咥えてミョウサイのところへいきました。
 ミョウサイは最初、ブンエンとシュンガイが散歩中に喧嘩でもしたらどうしようかと迷いましたが、二頭が仲良く並んで
散歩を待っているのを見るとリードを二本持って出かけました。

 いつもの散歩のコース、フカヒレ屋の脇を通ります。
(ここだ。このあたりであのネコの匂いがしたのだ)
 ブンエンは鼻をクンクンさせてモウトクの匂いを捜します。
 いろいろな食べ物の匂いが混じっていますが、モウトクは目の前の中華料理屋にいる気がします。
(モウトク! モウトク、いるのか! 私だ、ブンエンだ。こいつのことは心配しなくていい。顔を見せてくれ)
 精一杯声を張り上げて吼えてみせます。
「こ、こら。こんな朝早くから吼えたら迷惑だろうが」
 ミョウサイが焦ってブンエンの首を押さえますがブンエンはやめません。
 しばらくして中華料理屋の二階の窓が開き、髭面の男が顔を出して怒鳴りました。
「うるせえ! こっちゃまだ寝てんだ!」
(モウトク、モウトク!)
 ブンエンの呼びかけに気づいたのでしょうか。
 男の横からネコが顔を出しました。
(モウトク…どこかで聞いた名前なんだけどな…それにええと、ブンエンっていうのも聞いたことある…)
 ずっとアマンと呼ばれて自分の名前も忘れてしまいかけています。
 あまり反応を示さないモウトクに、ブンエンが嘆き始めたときでした。
「おや、そのネコは…」
 ミョウサイがモウトクに気づいてくれたのです。
「なああんた、そのネコ、あんたのネコかね?」
 ミョウサイが話しかけると男はモウトクの首をつかんで答えました。
「こいつは俺の兄者が飼ってるネコよ。こいつがどうかしたかい」
「俺の従兄が飼ってるネコによく似ているんだ…なあ、首輪に名前が書いてないかい」
 ところが首輪はホンショの屋敷へ連れてこられたときに変えられていました。
「ちょっと待ってくれねえか。俺にはよくわかんねえから兄者を起こすよ」
 男はアニジャを起こし、これまでのことを話して聞かせました。
 アニジャは二階の窓から話すのは失礼だと、モウトクを連れて外へ出てきました。
「あんたかね、このネコのことを聞いていたのは…こいつは私が拾ったネコなんだが」
 そこでミョウサイは改めて、モウトクがゲンジョウから奪われてホンショの屋敷へさらわれたことやモウトクの行方が
わからなくなってゲンジョウの怪我が治らないことを話して聞かせました。
「ふーむ、確かに私はこのネコをホンショの屋敷跡で見つけたのだが…そういうことならこのネコはその御仁に
お返ししよう。元々ヤケドが癒えるまでのつもりだったし」
 アニジャはなんのためらいもなくモウトクを差し出しました。
 ミョウサイの手に渡ったモウトクは思いきりいろんな匂いを吸い込んでみます。
(あ、この匂い…ええと、ええと…そうだ、口から出てくるモクモクとしたやつの匂いだ。それで、それで…そうだ、
オレこのヒト知ってる…)
(モウトク、思い出してくれたのか)
 まだ曖昧な記憶ながらモウトクはうなずきました。
「ありがとう。また改めてお礼にくるよ」
「いや、それには及ばない。今度はもうさらわれたりしないように気をつけてやってくれ」
 ミョウサイの懐に抱かれて去っていくモウトクを、アニジャはいつまでも見送っていました。
「なあ兄者、またネコを飼おうぜ。イヌでも悪くねえけどな」
 そんなアニジャを慰めるように、ヨクトクがそう言って肩を叩きました。

 コンコンとノックの音がして、ミョウサイが顔を出しました。
 ベッドに身体を起こしていたゲンジョウは、あまり期待していない声でいつもと同じことを尋ねます。
「ミョウサイ、モウトクは…」
 ミョウサイは唇にそっと指を当て、きていたジャンパーのファスナーをそうっと下ろしました。
 窮屈な場所から顔をのぞかせたもの、それはモウトクでした。
「モウト…!」
「しーっ、看護師に見つかったら大変だからな。今日は内緒で連れてきたんだぜ」
(ゲンジョウ、ゲンジョウ、ケガしたの? 早く治っておうちに帰ろうよ)
 モウトクはそう言って小さく首をかしげます。
 ゲンジョウは満面の笑みでモウトクを撫で、力強い声で言いました。
「すぐに治るぞ。そしたら家に帰ろうな…俺とモウトクとブンエンで」
 あれからミョウサイの家に落ち着いたモウトクは、ブンエンからいろんな話を聞かされてゲンジョウのことも山の
家のことも思い出したのです。
 モウトクもホンショの屋敷でのことを話そうとしましたが、もうすっかり忘れていました。
 もちろんシュンガイともちゃんと仲直りしましたよ。

 本当にゲンジョウはすぐに退院して、ブンエンとモウトクを連れてあの家に帰りました。
 なにもかもが悪い夢だったのだと言い聞かせて…。
 だから今も山の小さな家にはひとりと一匹と一頭が仲良く暮らしています。
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