最近ネコのモウトクは不思議な匂いを嗅ぐようになりました。今まで自分が知らなかったケモノの
匂いです。鼻をヒクヒクさせてカンウに尋ねました。
(ねえ、カンウはこれがなんの匂いか、わかる?)
 カンウはいろんなことを知っています。
(ああ知ってるとも。窓の外を見てごらん)
 モウトクは出窓に飛び乗って、白く曇るガラスを前足で拭ってみました。
 大きなヒトが鎖を持って歩いています。その鎖の先には大きなイヌがつながれていました。
(あれはイヌだ。イヌにはいろんな大きさのがいるんだが…モウトク、あれには近づかんほうがいいぞ)
 カンウがそう忠告しますが、モウトクはもう、凛とした態度のイヌに魅せられてしまっていました。
(お友達になれないかなぁ…そうだ、お散歩のときに声をかけてみればいいんだ)
 翌日、モウトクはイヌのお散歩を狙って外へ出てみました。
 厳つい顔の主人がイヌを連れてやってきます。
(こ、こんにちはっ)
 近くで見るとイヌはすごく大きいです。勇気を出して声をかけたのにイヌはモウトクを見て唸り声を
上げました。思わずモウトクも身構えます。
「フン、ネコか…ブンエン、噛み殺してしまえ」
 突然のことにびっくりしてモウトクは動けなくなってしまいました。主人があの鎖を離したら、
ブンエンというイヌはまっすぐモウトクに突進してきて、あの鋭い牙で噛み付いてくるでしょう!
「モウトク、どうしたっ!」
 あまりの騒ぎにゲンジョウが気づいて出てきてくれました。モウトクを抱き上げしっかりと抱えます。
「ネコを出すのはいいが、うちのブンエンに噛まれても文句は言うなよ」
 ブンエンの主人はフンと鼻を鳴らし、いってしまいました。
「モウトク、大丈夫だったか? 最近怪しいやつが引っ越してきたと聞いたが…そうか、あれが…」
 ゲンジョウがなにかつぶやいていますが、モウトクには意味がわかりません。でも、なぜかブンエンを
嫌いになれないのでした。

 ある夜のこと、珍しくゲンジョウが出かけたときのことです。
 いつもはほとんどヒトなど通らない山道が急ににぎやかになりました。窓辺で寝ていたモウトクは
目を覚まし、専用の出入り口から外へ出てみます。
 少し向こうに小さな明かりが見え、にぎやかな音はそこからしているのでした。
(いってみようかな)
 そんなことを考えたとき、風に乗っていつか聞いたことのある銃声と、いつか嗅いだことのある
火薬の匂い、それに血の匂いが漂ってきました。そして…やけに悲しそうで怒ったようなブンエンの声。
 モウトクはなんだかすごく怖くなって家の中に戻りました。
 翌々日、モウトクはまだ少し残っている匂いを頼りに、ブンエンのおうちへいってみました。
 家の中はしーんと静まり返っていて、ヒトの気配はありませんが血の匂いはまだしていました。
玄関の横にブンエンが身動きしないで座っています。
(ブンエン?)
 ブンエンはモウトクを見ると、くるなと言うように低く唸りました。
 やっぱり近づくことはできなくて、モウトクはしぶしぶ帰ります。
(そうだ、ブンエンお腹すいてるかも。オレのごはん、持っていってあげよう)
 ブンエンのごはん皿が空っぽになっているのに気づき、モウトクは次の日にゲンジョウにもらった
おサカナを持ってブンエンのところへきました。
 ブンエンはもう吠える元気もないのでしょうか。モウトクに気づいても黙って見ているだけです。
(あ、あの、ごはん持ってきたよ…オレの、あげる)
 しかしブンエンは手をつけません。
(食べないの? あのヒト、どうしたの?)
(お前には関係ない)
 ふとブンエンが顔を上げました。モウトクも一緒に振り向くとそこにゲンジョウが立っています。
「モウトク、こんなところにきていたのか…うん? お前…そうか、お前は連れていってもらえ
なかったのか」
(ねえねえゲンジョウ! ブンエンもおうちへ連れていってよ! ごはんもないのにここにいたら、
ブンエンかわいそうだよ)
 モウトクの声がゲンジョウに届いたのでしょうか。
 ゲンジョウはブンエンをつないでいた鎖を外すと、自分の手に持ちました。
「うちまで歩けるか? お前は大きいからちょっと抱えられんぞ」
(おいでよブンエン! おうちはあったかいし、お腹もふくれるよ! それに…オレ、ブンエンと
友達になりたいし!)
 熱っぽく語るモウトクを見て…ブンエンはやっと腰を上げました。

 ゲンジョウの家は暖かく優しい空気で包まれていました。ブンエンは、主人のときには絶対
できなかったこと…暖炉のそばで寝そべることを許されます。
「あいつもかわいそうなやつだ…」
 ゲンジョウはブンエンのごはんを作りながら、だれに聞かせるとでもなく話し始めました。
「あいつの主人はな、人に追われてここに隠れ住んでいたんだよ。あいつを飼っていたのも護衛の
ためだろうな。俺が出かけていた夜、とうとう隠れ家は見つかって…主人は殺されてしまったんだよ。
そのときにあいつも殺してやれば寂しくなかったのにな…」
 最初は警戒していたブンエンですが、モウトクやカンウに促され、ようやく慎ましやかに食事を
始めました。
(今日はブンエンと寝るっ!)
 いつもはゲンジョウのベッドの上ですが、モウトクはうれしくてブンエンの横に寝そべりました。
(一緒に住むんだもん。もう怖くない)
(お前はへんなやつだな)
 ブンエンはあきれているようです。モウトクはしばらく考えていましたが、思い切って口を開きました。
(ブンエンのご主人は死んじゃったんだって。オレはゲンジョウが死んじゃったら悲しいな…ブンエンは
悲しくないの?)
 ブンエンは黙っています。黙って頭をモウトクの身体の上に乗せてきました。モウトクは重いけど
我慢します。
(悲しいときは泣くといいよ、ブンエン。泣くのはちっとも恥ずかしくないってゲンジョウがいってたよ。
それに…これからはモウトクもゲンジョウも一緒だよ? もう寂しくないよ?)
 ブンエンの返事はありません。でも…モウトクの背中がなんだか濡れていきます。
 モウトクは明日の朝、ブンエンのほうから「おはよう」って言ってくれるような気がしました。
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