孔明はもう何日も部屋から出てこない。
 ときおり、呼ばれた文官たちが出入りするだけで、姜維ですら入室できない。錬兵や兵法書の整理、
そんな仕事ばかりが続いている。
 ある日、姜維は思いきって執務室の扉を叩いてみた。
「丞相…お邪魔でしょうか」
 恐る恐る声をかける。意外にも孔明は穏やかな笑みを浮かべて姜維を迎え入れてくれた。
「ようやく落ち着いたのだよ」
 しかし姜維には一緒に微笑むことはできなかった。
(丞相…お痩せになった)
 それを口にすれば、孔明という男は相手を心配させまいと無理をするから。
「立っていないでおかけなさい、姜維」
 孔明は、仮眠用に持ち込んだ長椅子に姜維を座らせた。
 そうして自分も姜維の横に腰かけ、身体をごろりと姜維のほうへ倒してきた。
「じょ、丞相」
 突然、自分の膝を枕にされ、じっと見つめられて姜維は戸惑う。
 孔明は微笑んだままだ。
「少しくらい膝を貸してくれてもいいだろう」
「え、ええ…むろんですが」
 ちょっと楽になるようにと姜維は、孔明の被っている帽を外してやった。
 孔明が礼を言うようにゆっくりとまばたきをする。
 それから、自分の膝をのぞきこんでいる姜維の頭に手を回し、姜維の髪を縛っている髪留めを
取り去ってしまった。
「あっ…」
 後ろでひとつにまとめてあった髪が乱れ、孔明の顔にも髪がかかる。
「す、すみません丞相」
 あわてて直そうとする姜維の手をやんわりと押さえた。
「かまわないよ」
「え?」
 孔明は、姜維の髪を手にとり口づけた。
「…いい香りがする」
「そうですか? ああ、昨日趙将軍と薬草を摘みにまいりましたから、きっと近くに咲いていた花の
香りでしょう」

 初夏の山は木々に色とりどりの花をつけ、その香りで鳥や虫を誘う。
 目的の薬草はそのような場所に自生していた。
「姜維! これだろう、薬師が言っていたのは」
 一緒に探していた趙雲が声を上げる。
 姜維はその横に近づき、趙雲の手にある草と薬師が持たせた見本を比べた。
「ええ、これですね」
「よし、次はどれだ」
 趙雲の親切に甘えて、姜維は日暮れまでつきあわせてしまった。
 そのせいだろう、髪や衣服にまで花の香りが移ってしまったのは。
 ようやく城内へ戻ってきて一息ついたときだった。
「姜維、頭の上に花がいっぱい散ってるぞ」
 趙雲が笑いながら姜維の頭を払う。
 それから姜維の身体中に鼻を近づけて匂いをかいだ。
「身体中花の香りだな」
 お返しとばかりに姜維も鼻をうごめかせる。
「そういう趙将軍もよい香りですよ」
 姜維が笑うと趙雲は顔をしかめた。
「お前はいいが、俺はこれでも数万の兵を預かる身だぞ。将軍が花の香りを振りまいて錬兵するのか。
馬超あたりが大笑いするに決まっている」
 その言い方があまりにおかしかったものだから…姜維は孔明のことも忘れて笑った。

「なるほど」
 姜維から事の次第を聞いた孔明は、思い出し笑いをする姜維をあいかわらず優しい目で見ている。
その目がふと真剣なものに代わったとき、姜維は髪を引っ張られ孔明の顔に覆いかぶさるような体勢に
なってしまった。
「丞相…」
「黙って」
 ごく自然にふたりの唇が重なった。
 そして、姜維の花の香りとずっと浸っていた孔明の墨の香りとが混じり合い、互いの鼻腔をくすぐった。
 息苦しくなるほど長い長い口づけ…。
 ようやく唇が離れても、孔明は姜維の髪を離さなかった。
「なにか怒っていらっしゃるのですか」
 おずおずと姜維が問う。
 孔明はまっすぐに姜維の目を見ていた。
「唇まで…趙将軍と同じ香りがしたらどうしようかと思った」
「そのような…ことはございません」
 その答えに孔明の表情がほころんだ。
「先ほどまであれほど疲れていたのに…姜維に癒される」
 孔明はもう片方の手を伸ばし、姜維の顔に触れた。
「その目、その口…その微笑み。どれもこれも愛しい…」
「姜維は丞相のおそばにおります」
 はっきりとした口調でそう言い、姜維は自分に触れている孔明の手に自分の手を重ねた。
「すべて…丞相のものです」
 孔明が再び微笑んだ。
 そうして姜維の身体に顔を押し当て目を閉じる。
「もうしばらく、こうしていてくれ…馥郁たる花の香りに包まれて眠りたい…」
「はい丞相」
 姜維が返事を返したとき、すでに孔明は寝息を立てていた。
 姜維ははにかむように微笑んで身体を倒す。
 また花の香りと墨の香りが入り混じった…。
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