雨が降っていた。
 天の声である春雷が遠くで鳴っている。
 董卓の軍に蹴散らされ敗走中の曹操軍…ようやく落ち着きはしたものの従卒を含めてわずかな
人数しか残ってはいない。
 負傷した兵士が互いに支え合い肩を寄せ合って雨をしのいでいる。
 陣…と呼べるほどの大きさもないが、曹操は兵士たちのあいだを回って激励した。
 ふと、その仲に夏侯惇の姿がないことに気づいた。
「元譲!…元譲!」
 大声で呼ばわるが返事はない。
 その声に反応したのは傷の手当を終えた夏侯淵だった。
「孟徳殿、どうした」
「おお妙才、元譲はどうした」
「…惇兄がいないのか?」
 周囲の兵士に尋ねて回るがだれも夏侯惇の姿を見たものはいなかった。
 曹操は近くにつないであった馬の手綱を取る。
 それをあわてて夏侯淵が引き止めた。
「どこへいかれる」
「元譲を探しにいく」
「バカを申せ。今戻れば殺してくれといっているようなものだぞ!」
「しかし元譲が!」
 押し問答が続く。
 終いに夏侯淵は曹操の手を無理矢理離させた。
「主君であるそなたが動いてどうするのだ! 惇兄に限って敵に捕まるようなことなどない」
 諭され、冷静さを取り戻した曹操は力なく手綱を放す。
 しかしまだつぶやいていた。
「…雨が…降っておるのだぞ…」
 夏侯淵は兵たちに休養を命じ、曹操の身体を引きずって設えられた天幕へ連れていく。
 曹操は雨の雫が垂れてくるのもかまわずに座り込んだ。
 夏侯淵はその前にひざまずき曹操の頬を伝う雫を指先で拭った。
「そなたは…惇兄のことしか思わないのだな」
「…そんな…」
 ことはない、と続けるはずだった言葉を夏侯淵の唇でさえぎられた。
 突然のことに驚き曹操は小さく抗う。
「そなたを慕いつき従ってきたのは惇兄だけではないのだぞ…」
 怪我をしているはずの夏侯淵のほうがなぜか力強い。
 曹操の身体を易々と捕らえさらに唇を重ねた。
「よ…せ、妙才」
 曹操の顔が歪む。そのとたん、
「なにをしているか」
 天幕の入口が跳ね上げられ仁王立ちの夏侯惇の声がした。
 全身が雨に濡れ顔には血糊が着いている。
 その手に小さな包みがあった。
「元譲…! 無事であったのか」
「ただ逃げるだけでは収まらん。腹立ち紛れに追手の首をひとつ取ってきた」
 そう言って曹操の前に包みを投げる。
 結び目の解けた包みから血まみれの首がコロコロと転がった。
 夏侯淵は小さく苦笑すると立ち上がり、その場所を夏侯惇に譲った。
「先ほどから惇兄の姿が見えないと駄々をこねられてな。しかたなくわしがお慰めしておった」
 夏侯惇の肩を叩き天幕を出ていく。
 夏侯惇はそれを見送って曹操の前にひざまずいた。
「孟徳…俺を心配してくれていたのか」
 曹操は少し情けない顔で笑いながら夏侯惇の胸に顔を埋めた。
「雨が…降っていたからな」
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