夕刻をだいぶ過ぎたころ、使用人が来客を告げた。
「旦那様、丞相がお見えですが」
 夏侯惇は書状をしたためていた手を止め、曹操を招き入れた。
「どうした孟徳」
「いや、美味い酒が手に入ったのでな。だれかが昼間、川で魚をたくさん釣り上げたと聞いたし、
お前と差し向かいで飲もうと思った」
 曹操は休日の夏侯惇が、いい釣果をあげたと聞いてやってきたようだ。
「ああ、まあまあだったな」
 夏侯惇は使用人を呼んで酒を煮させ、昼間釣った魚を料理させる。
 先に曹操の持ってきた酒を楽しんでいたところ、使用人が扉を開いた。
「旦那様、魚をお持ちしまし…あっ」
 使用人より先に部屋へ入ってきたもの、それは子犬だった。
 子犬は尻尾を振りながら夏侯惇のそばへやってき、その膝にちょんと乗っかった。
「元譲、その犬はなんだ」
「ん? ああ、こいつはしばらく前出かけたときに、後ろをくっついてきてな。妙になつくものだから
連れて帰ってしまった」
 夏侯惇はほんの少し目を細め子犬を撫でてやる。
 子犬は夏侯惇の手から魚の切れ端をもらい、うれしそうに尻尾を振って食べ始めた。
 曹操はそんな様子を見ながら、箸も使わずに魚をつまみあげ口に放り込んで酒で流し込んだ。
 再び扉が開き、子犬が出ていくのと入れ違いに使用人がふたつめの膳を運んできた。
「旦那様、あの一座の者が、お客人であるなら舞でもと申しておりますが、いかがいたしましょうか」
「ああ、せっかくだが断れ。疲れてもいるであろうし、孟徳は普通の客とは違う。大事な話もあるからな」
「かしこまりました」
 使用人が下がってから、曹操は再び問うた。
「元譲、一座とはなんのことだ」
「今日、釣りから戻ってきたら旅芸人の一座が屋敷で休ませてくれと頼んできたのだ。なんでも舞姫が熱を
出したとか…」
「それで屋敷に泊めてやっているのか」
「敵でもあるまいし、病人を放り出すわけにもいかんだろう」
 曹操は急に黙り込んでしまった。

 黙ったままで酒を干す時間がどれくらい経っただろう。
 少し酔いの回った曹操がおもむろに口を開いた。
「元譲、お前は…」
「うん?」
「だれにでも慕われるんだな。使用人に、子犬に…いずれは舞姫もお前に惚れる」
「なにを…」
 苦笑しながら首を振った夏侯惇は、そこでようやく曹操が嫉妬していることに気づいた。
 杯を置き、不機嫌な曹操のそばに寄る。
「心配せずとも私に惚れるなんて相手は決まっている…こんな、相手が嫉妬しているのも気づかんような
鈍感な男は、な」
「まるで私が物好きだといわんばかりだな」
 曹操の機嫌はなかなか直らない。
 夏侯惇はすうっと首筋を撫で、小さく震えた曹操の唇に口づけた。
 曹操の手にあった杯がゴトンと床に落ちる。
「んっ…元譲…ずる…い」
 抗議しようと振り上げられた手が押さえつけられる。
「子犬より舞姫より、もっといいものが私を慕ってくれているのにな」
 言葉が消える。
 明かりが消える。
 互いの唇を貪る音だけが残る。
 やがてそれは甘い吐息へと変わり、せつないあえぎになっていった。
「元譲…ああ…っ」

 再び明かりが灯される。
 庭のほうでは夜の凍った空気に、生意気な子犬の遠吠えが聞こえていた。
 室内には火が焚かれているせいで暖かい。
 紅く痕のついた胸をはだけたままの曹操に、夏侯惇はそっと上掛けをかけてやり自分もその横に入った。
 うっすらと汗ばんだ夏侯惇の胸に、曹操が身体を預けてくる。
「お前が…その手でほかのものを愛でるかと思うとイライラする…」
「この手でだれを抱くというんだ?」
 夏侯惇は曹操の手を取り、自分の顔に押し当てた。
「ひとつ残ったこの目で見るのも、この唇で触れるのも、この手に抱くのも…たったひとりだけだ」
 曹操は安心したように目を閉じると、さっき灯したばかりの明かりを吹き消した。
 もう一度自分だけの腕の中を実感しようと。
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