「こちらがそうです」
 看護師に案内されて病室に入った曹操は、相部屋の隅で窓から差し込む初夏の光も気にせず眠る男を見た。
 老人ばかりの病室の中、その男は曹操と少ししか変わらないはずなのに老人のようだった。
 大きな点滴バッグにつながっている枯れ木のような腕が痛々しい。
 曹操は身をかがめ、男の耳元にささやいた。
「本初」
 男はかつて曹操を意のままにし、その本心に気づかぬまま裏切られた袁紹だった。
 袁紹は気だるそうに目を開き、目の前にあるのが曹操の顔だとわかるとかすかに笑った。
「…孟徳か…久しぶりだな…」
 袁紹が生きているとわかってほっとしたように曹操が続けた。
「どうした本初。名族のお前がこのような病院で…」
 曹操と夏侯惇が辞め、自分たちで会社を興してからというもの、袁紹の会社は傾いていく一方だった。
 体調を崩した袁紹に代わり、息子が会社を続けているがいつまで持つかはわからない。
 そして息子たちは厄介な袁紹をこんな小さな病院に押し込んでしまったのだった。
「私は…病院にいるのか…」
 どうやら記憶が曖昧になっているようだ。
「ああ、そうだ。ここはずいぶん空気が悪いな。出よう」
 曹操は後ろについてきた屈強な男たちに合図すると、袁紹を点滴ごと運び出した。
 それから車に乗せられ、曹操が通勤用に借りているマンションに運ばれて、そのベッドの上に置かれた。
「ここは、どこだ…?」
「私の部屋だ。たぶんだれも知らない」
 ややあってから袁紹は、常に曹操の近くにいた男のことを思い出した。
「あいつはどうした…? ほら、あの、目を失った…」
 それが夏侯惇の事を指しているのだと曹操にはすぐわかった。
「ああ元譲か…元譲は出張中でな、しばらく帰ってこんから安心しろ」
 曹操は壁にフックをつけて点滴バッグを引っ掛けた。
 このバッグが空になったら自分の主治医を呼ぼう。袁紹はもうあの病院に戻ることはないのだからと考えながら。
「あれから…何年になる…?」
「十年…いや、もっとになるか」
 袁紹は、なぜ自分をここに連れてきたかとは尋ねなかった。
 それを聞けば曹操が自分より上に立ったような気がして…自分が惨めになるような気がしたから。
「酒でも出せればいいのだがな、お前は病身だしまだ昼間だし。せっかくだから茶でも入れよう」
 この日のためにあのころ袁紹が好きだった茶を用意しておいた。
「いい香りだ…」
 懐かしむようにそう言って袁紹は茶をひとくち含んだ。
 昔、曹操にこの茶の美味い飲み方を教えたときのことを、まだ覚えていたのかと思い袁紹は苦笑した。
 茶の香りのせいか気分が落ち着いてくると急に眠くなった。
「久しぶりに遠出をさせたからな。眠かったら眠るといい」
 曹操の声を聞きながら袁紹は眠りの中に落ちていった。

 目が覚めたころには陽は傾き、部屋の中は薄暗くなっていた。
「本初、目が覚めたか」
 なにやらいい匂いとともに曹操が入ってきた。
 明かりに目が慣れるまで少しかかったが、袁紹は曹操の手にあるものが湯気を立てている粥だとわかった。
「先ほど病院に問い合わせたら粥くらいはいいと言うのでな。粥など作ったのは、学生時代お前に命じられたとき以来だ」
 苦笑しながら蓮華を袁紹の口に運んでやる。
 袁紹は遠慮するでもなく素直に口を開き、曹操に食べさせてもらった。
 そのあとは互いに他愛のない話をしながら時が過ぎるのを楽しむ。
 袁紹にとっても曹操にとっても、旧交を温めるということがこんなにも楽しいものとは思わなかった。
 ふと、会話が途切れたとき袁紹の震える指先が曹操の顔に伸びてきた。
 その手を取り曹操は自分の頬に押し当てる。
「孟徳…いい顔だ」
 袁紹は懐かしむようにそう言い、何度も何度も曹操の頬を撫でた。
「望むならお前の膝に乗ってやろうか、本初。もう昔のような青臭い身体ではないがな」
 曹操がからかい半分に言うと袁紹は微笑んでうなずいた。
 曹操はスルスルと着ているものを脱ぎ、袁紹が半身を起こしているベッドに乗った。
 曹操の重みでベッドがきしむ。
 袁紹は愛しそうに曹操の首から肩を、そしてたくましいままの胸を撫でた。
「私とは…違うな…私の身体は、朽ちてしまった…」
 長い入院生活で袁紹の肉体はやせ衰え、骨が浮いて見えるほどだった。
 袁紹は曹操を抱きしめた。だが、それに抱きしめるというほどの力はない。
 今度は曹操が袁紹の頬を撫でた。
「本初、もう病院など戻る必要はない」
「…なぜだ」
「お前の身体が弱っているのはあの環境のせいだ。ここで私と暮らせばいい。環境を変えればお前はまた元のようになる」
 袁紹は小さく笑った。
「そう…そうかもな…」
 その夜はふたりで遅くまで語り合った。

 翌朝、袁紹が目を覚ますとすでに曹操の姿はなかった。おそらく仕事に向かったのだろう。
 袁紹はしばらく辺りを見回し、ベッドの横に電話を見つけた。
 少し震える手で受話器を取り、息子ではなく落ちぶれた現在でも付き従っていた腹心の部下に電話をかける。
「すまんが…迎えにきてもらえないか。うむ…曹孟徳のマンションにいる…」
 なにか具合が悪いかと問う部下に、袁紹は苦笑しながら言った。
「あいつが私に感じているのは恩義などではない…いや、恩義としても私はそれを受ける資格はないのだ…」
 曹操が帰宅したとき、すでに袁紹の姿はなくその後どこを探しても袁紹の行方が聞かれることはなかった。
 後にこの日のことを尋ねた夏侯惇に、曹操は小さく笑って答えた。
「見透かされただけだ…さすがは本初としか言えんな…」
 そうしておそらくは同じ空を見ているであろうかつての友に惜別した。
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