心地よい風が頬を撫でる。
 ときおりさえずる小鳥の声しか聞こえない。
「なんだ、いつもこんなところでサボっているのか」
 揶揄するような曹操の言葉に、夏侯惇はフイと顔を背けた。
「人聞きの悪いことを言うやつだな。ときどき息抜きにくるだけだ」
 緩やかな斜面に腰を下ろせば街が一望できるこの丘を、夏侯惇は気に入っているようだった。
「だれもおらんのだな」
「うむ」
「静か過ぎるのもつまらんものだ」
「勝手についてきたくせに文句を言うな」
 車で出かけようとしたところへ曹操が乗り込んで結局ついてきてしまった形である。
 戻ったら郭嘉がうるさいだろうな、と思いつつ夏侯惇は斜面に腰を下ろす。
 その横に曹操も腰を下ろした。
「おお、いい眺めだな」
 春の日差しはまだ柔らかく、風の温度と相まっていっそうの快適さをかもし出している。
「なんだかこうしていると昔を思い出すな。私とお前と妙才とでよく遊んだ場所に似ている…」
 懐かしそうに目を細めて曹操が話し出す。
 夏侯惇の相槌が消えたと思ったら…いつのまにか夏侯惇は寝転がって目を閉じていた。
「やれやれ、私にひとりでしゃべらせおって…」
 曹操は苦笑して自分も横になった。
 が、どうも落ち着かず起き上がってしまう。
 眠っている夏侯惇がほんの少し腹立たしい。
 そばの草を摘んで鼻でもくすぐってやろうかと思うが、目を覚ました夏侯惇がどんなに不機嫌な
顔をするかと思うと躊躇してしまう。
 その代わり…というわけではないが、曹操は身体を倒して夏侯惇の唇にそっと自分のそれを
重ねた。
 夏侯惇はまだ目を覚まさない。
「フッ、絶好の機会であるのにな…」
 今度はもう少し長く口づけてみる。
 だがまだ目を覚まさない。
 そのときゴオッと音がして大きな風が曹操の髪を乱した。
 さすがに夏侯惇も今度は起きただろうと目をやるが…夏侯惇はピクリとも動かない。
「元譲?」
 小鳥のさえずりが消え風がやむ…静寂の中で曹操の胸をおかしな不安がよぎった。
「元譲…元譲!」
 目の前にあるのが夏侯惇の抜け殻のように思えてきてしまい、つい大きな声を出す。
「元譲!」
「…なんだ、孟徳。もう戻らねばならん時間か?」
 何度目かの呼びかけに夏侯惇は目を覚まし、まぶしそうに顔をしかめて腕時計を見る。
 そうして目の前の曹操に気づいた。
 まるで帰り道を忘れてしまった子供のように情けない顔…それが起き上がった夏侯惇を見て
さらにひどくなった。
「どうした孟徳」
「この…!」
 曹操は夏侯惇の身体を引き寄せるとその肩に顔を押し当てた。
「何度呼んでも起きないから、私はお前が…まるで…」
「死んだように眠っていたか」
 顔を押し当てたままでコクンとうなずく。
 夏侯惇は曹操の頭を掻き抱きその耳にささやいた。
「お前を置いては死なん…」
 曹操がもう一度うなずく。
 静寂が破られ小鳥のさえずりが復活する。
「風が冷たくなってきたか…?」
 夏侯惇の問いかけに曹操はかすかに首を振った。
「お前がいるから…寒くない」
 互いの体温が心地よい。
 もうしばらくこのままで…ふたりは肩を寄せ合って、もうしばらくすれば戻らねばならない街の
ほうを見下ろしていた…。
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