目の前にある書類の山がなくなったところで、腕の時計を見れば午前4時。顔を上げれば窓の外は
白み始めていた。
「やれやれ、こんな時間になってしまったか」
 今日中に曹操が仕上げなければならなかった仕事。
 ひとりよりもふたりのほうが早かろうと考えて手伝い始めたのは昨夜の8時ごろだっただろうか。
 ようやく目処がついたとあって夏侯惇は大きく伸びをした。
 隣の曹操もほとんど終わったとみえて大きな欠伸をしている。
 ふたりは朝の空気を吸いに屋上へと上がった。
 まだ眠っている町は静かで、早起きのスズメのさえずりがときおり聞こえる程度だ。
「もうすぐ夜が明けるな」
「うむ。つき合わせて悪かった」
「なんの。お前の頼みだ、聞かんはずはない」
 初夏とはいえ早朝の空気はまだ冷たくて、大きく息を吸い込めば狭い室内でよどんだ身体が清々しく
なっていくのがわかった。
 夏侯惇はポケットからタバコを取り出して火をつけようとする。
 風をさえぎろうと手でライターを覆った瞬間、ひときわ強い風が吹いて炎が夏侯惇の指に触れた。
「ちッ…」
 小さく顔をしかめてライターを取り落とす。
 拾おうとするより先…曹操が夏侯惇の手をつかんで火傷した指を口に含んでいた。
「…孟徳…」
 指を咥えたまま、言葉を失った夏侯惇の目をじっと見つめる。
 それから女が男のそれを愛撫するように舌先を突き出して指を舐め上げた。
 その目とその仕草に煽られて、夏侯惇は吸われている以外の指で曹操の唇を撫でる。
「元譲…」
 自然に体重をかけると曹操の身体は落下防止の鉄柵に押しつけられる形になった。
 なにかを求めるような目に応え、引き抜いた指の代わりに自分の唇を唇に被せる。
 一瞬、刻が止まった…。
 東雲の空の下、ふたりは動かない。
 曹操の口内はほんの少し物の焦げたような味がした。
 曹操は夏侯惇から香ってくるタバコの匂いを肺いっぱいに吸い込む。
 雲の切れ間から漏れ始めた陽光が頬を照らすまでふたりはずっとそのままだった。
 おもむろに唇を離した夏侯惇がふっと相好を崩す。
「お前のおかげで指の痛みを忘れた…」
 曹操も小さく微笑みながら鉄柵から身体を離した。
「これくらい容易いことだ…」
 それからふたりは互いに取り出したタバコに火をつけた。
「日が昇ってきたな」
「ああ、今日もいい天気になりそうだ」
 ふたりの吐いたタバコの煙がひとつになって空へと上っていく。
 曹操と夏侯惇はその煙が雲に溶け込んでいく様をしばらく眺め続けていた…。
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