部屋の中は暗い。
 夏侯惇はだれもいないものと思って明かりをつけ…自分の机に突っ伏している曹操に気づいた。
 まだ父親の会社を引き継いだばかりで、一生懸命大きくしようと必死だった。
 そして…若かった。
「どうした孟徳。取引先に会うと言っていたのじゃなかったか」
 曹操は突っ伏したまま動かない。
 疲れて眠ってしまったのかと近づいて、机の上に置かれた酒に気づいた。
「…社内では飲むな」
「うるさい」
 伸ばした夏侯惇の手を曹操が払いのけた。
 顔の赤さは酔いのためとしても、目のあたりの赤さは涙のあとのようにも見える。
「なにかあったのか」
 さては契約にでも失敗したかと穏やかに切り出した。
 しかし曹操は答えない。やがてくぐもった声が聞こえてきた。
「…見るな」
「孟徳?」
「私を見るな…」
 肩に手をかけようとした瞬間、曹操は激しい勢いで身をよじった。
「私に…触るな」
「なにがあったと言うんだ」
 曹操は顔を上げ…自分を見つめる夏侯惇から目をそらしながら口を開いた。
「無理矢理…された」
「なにをだ?」
「無理矢理…犯されたんだ」
 そう言われて夏侯惇は取引先の、あの太った男がいつも好色そうな目つきで曹操を見ていたことを
思い出した。
 あの男が仕事を餌に曹操を暴行したと想像するだけで怒りが湧き上がってくる。
「奴か! あの男に辱められたと言うのか!」
 曹操が答えないのは肯定の意味だろう。
 頭に血が上った夏侯惇は大股で部屋を出ていこうとした。
 その腕をつかんで曹操が止める。
「やめろ元譲。いかなくて…いい」
「しかし!」
「気にするな。仕事は取ってきた」
 激昂する夏侯惇とは対象的に曹操は少し落ち着きを取り戻し、かすかに笑う余裕さえ見せた。
 綺麗事では済まない時代だとわかってはいる。
 ただ…身体を汚されただけだ。
 プライドまでを傷つけられたわけじゃない。
 悲しいわけではない。
 口惜しいだけだ…曹操は無理にでもそう思おうとしているようだ。
 その気持ちを夏侯惇は無視できなかった。
 心を落ち着かせ優しく問う。
「まだ、痛むのではないか?」
「そうでもない」
「とにかく帰ろう。送っていく」
 曹操に肩を貸し自宅へと送り届ける。
 家の中も暗い。
 夏侯惇は曹操をベッドに横たわらせてやった。
「なにかして欲しいことはあるか?」
 曹操は自分を覗き込む夏侯惇を引き寄せいきなり唇を押しつけた。
 おずおずと触れるだけのような口づけ…それが離れたと見る間に今度は夏侯惇のほうから曹操に口づけた。
 先ほどとは違い舌を絡め深く貪るように…。
 嫉妬かもしれない…自分の一番大事なものを汚されたことへの。
 そう思いながら夏侯惇はいつまでも唇を離そうとしなかった。
「明日になれば妙才も戻ってくる。社のことは心配せず少し休め」
「ああ…すまん」
 自分も帰ろうと立ち上がる夏侯惇を曹操がせつない目で見ている。
「まだ、なにか?」
「…相手がお前であったなら…私はもっと違う思いだった…」
 そうして小さく微笑むと寝返りを打って背を向けてしまった。
 夏侯惇は黙って曹操の家をあとにした。
 外に出てから明かりがついたままの寝室を見上げる。
(孟徳…眠ってすべて忘れてしまえ。お前の屈辱は必ず晴らしてやるとも)
 夏侯惇の心の中の火種はまだ燻り続けていた…。
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