オフィスの通路は常に静かでなければならぬという社命から、あまり立ち話をする社員の姿も
見かけられない。
 だがこの日は少し違っていた。
 社長室のある最上階の通路がなにやら騒がしい。
 騒音を嫌うためにわざわざ通路に絨毯まで敷いてあるというのに…曹操は顔をしかめた。
 大きな声は緩やかにカーブした通路の向こう側から聞こえてくる。
 キンキンとした甲高い声のためなにを言っているのかはわからない。
(あの声は…文若か)
 叱りつけるのは簡単だがわめいている相手がだれなのかも気になる。
 大きな観葉植物の陰からそっとのぞいて、曹操は身体を硬直させた。
 荀ケの前に立っているのは夏侯惇だった。
 荀ケは何事かをしきりに訴えながら泣いているようにも見える。
 夏侯惇がなにも言わないのは曹操の愚痴を聞いているときと同じだ。
 さらに見ていると、終いに荀ケは夏侯惇に身を投げ出してきた。
 そして夏侯惇はその荀ケの身体を受け止めなだめるように背中をさすってやっている…その光景は
曹操を激怒させるのに十分だった。
「なにをしている」
 いきなり現れた曹操を見て荀ケの動きが止まる。
 その身体をエレベーターのほうへ押しやって夏侯惇は小さく言った。
「文若、もういけ。今は機嫌が悪い」
 荀ケがかすかに頭を下げてエレベーターに乗り込んでしまってから、夏侯惇は初めて曹操のほうを
向いた。
「孟徳、今お前のデスクに書類を置いておいた。目を通したら速やかに…」
 ごく普通の応対をする夏侯惇にも腹が立ってくる。
「元譲、私の質問に答えろ。文若となにを話していたのだ」
「気にするな。お前の悪口でないことは確かだ」
 そっけなくそう言い返し、夏侯惇は小さく手を挙げるとやってきたエレベーターに乗り込んでしまった。
 こうなると夏侯惇が話してくれることはない…曹操は自分のオフィスへと踵を返しながら唇を噛んだ。
 大人げない…大人げないとわかってはいるが曹操の心の焔は消えない。
 それが報復人事のような形になって表われた。
 その数日後、曹操は再び荀ケと夏侯惇を見かけた。
 今度は曹操の目を逃れるように更衣室の端である。
 ふたりを避けるように社長室へ戻った曹操を追いかけて夏侯惇が入ってきた。
「元譲、ノックくらいしろ」
「どうしてもお前に聞きたいことがあってな」
 そうして夏侯惇は曹操の目を覗き込むようにして尋ねた。
「なぜあのようなことをした?」
「なんのことだ」
「とぼけるな、荀ケのことだ」
 その名前を出されて曹操は手近の書類を床に叩きつけた。
「また荀ケか! 元譲、お前はそんなにあいつが好きか」
「なにを言っている?」
 曹操はいらついたように手を振り回しその場を歩き回った。
「私がなにも知らないと思っているのか。荀ケがお前に泣きつき、お前が荀ケを慰めて…ああ、
もうどうでもいい! 今すぐここから出ていけ!」
 曹操の苛立ちの原因を知った夏侯惇は大きなため息をつくと話し始めた。
「荀ケの、話がなにかを知りたくはないのか?」
「どうでもいいと言っておる! どうせお前との痴話喧嘩だろうが」
 夏侯惇がもうひとつため息をつく。
「あれが泣いていたのは、お前のことだぞ」
「なに?」
「あれはお前を慕ってここにきたのにお前が郭嘉ばかりを大事にすると…しかしお前に面と向かっては
言えず俺のところへ」
 さては自分の勘違いであったかと思いながらも、初めに言ってくれなかった夏侯惇に腹が立つ。
「なら…ならばなぜあのときに言わなかった?」
「あそこで話せば荀ケが哀れだ」
 曹操は大きな息を吐いた。
「私が郭嘉ばかりを大事している…か。別に冷遇した覚えはなかったのだがな」
 ソファに腰かける。
 その横に夏侯惇も座った。
「今一度、見直してやれ。熱くなるのはお前らしくない」
 すると曹操は夏侯惇の身体をいきなり引き寄せた。
 抗う暇を与えず口づける。
「お前のことが絡むと…私は私でなくなってしまうようだ」
 ニヤリと笑う曹操の唇に今度は夏侯惇が吸いついた。
「わかりあっているはずだぞ」
 そうささやかれソファに押し倒される。
 曹操の中にあった焔が一瞬にして消えていった…。
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