小さな場末の安ホテル、その一室で曹操はベッドに寝転んでいた。
 ホテルの前にある安キャバレーの半分壊れたネオンサインがちらつくのと、客を送り出す女の
嬌声とで眠ることなどできそうにない。
 父親の会社を継いだばかりでなにもわからず、初めて不渡りを出した。
 金額的にはそう大きなものではない。だが相手が悪かった。
 暴力団紛いの会社は毎日のように催促の電話をかけてき、さらには周囲に憚るような輩が曹操の
会社の前でわめく。
 殺されかねない勢いにしかたなく曹操はこんな逃亡者めいた生活を送らねばらなかった。
 ちらつくネオンに自分を重ねる。
(私は…なにをしている。回りが懸命に飾ってくれようとしているのに、自分で点くことも
できないではないか…)
 いつしか浮かんだ悔し涙でネオンが曇る。
 腕でネオンをさえぎった。
 安普請のドアが耳障りな音を立てて開く。
 コツコツと靴音が近づいてきた。
「元譲か…」
「ああ、今戻った」
 夏侯惇は曹操の隣のベッドに腰かけると社から取ってきた書類に目を通し始めた。
 サイドテーブルの上には明日の朝食が乗っている。
「元譲…大丈夫だったか」
「ん? ああ、ちょっと怖いお兄さんに囲まれたがな」
 冗談交じりに夏侯惇がそう答える。
 その夏侯惇をちらと見やり曹操は再び天井へ目を向けた。
「…すまん」
「気にするな。妙才と曹仁が金策をつけてきたらこの生活も終わりだ」
 会社を立ち上げたときからの同志である夏侯淵と曹仁は、曹操や自分たちの血縁を頼って地方へ
飛んでいる。
 夏侯惇は口下手な自分は営業に向かないと事務方に徹していた。
「お前の給料も未払いだな」
「会社が大きくなったらいくらでも高給にしてもらうさ」
 何事もないようにふるまう夏侯惇に対して申し訳なく思ってくる。
「お前が望むものはなんでもやるのにな…」
 夏侯惇は書類から顔を上げ曹操を見た。
 やけに弱気な曹操が小さく見えてくる…自分の腕で包んで守ってやりたくなる…。
「望めるのならば、お前が欲しい…」
 曹操は夏侯惇を見つめ返した。
 張り詰めていたものを緩めてしまいたい…。
 ややあってから曹操は自嘲気味に笑いながら言った。
「こんな私で良いのなら…」

 薄い窓ガラスを通して曹操の下腹に色とりどりの光が落ちる。
 キャバレーの名前をなぞるように夏侯惇の指が下腹を這った。
「元…譲…」
 夏侯惇の腰が動くたび、下腹の光彩がうねる。
 緑、赤、青と曹操の肌色が変わる様子に夏侯惇は目を細めた。
「美しいな…」
 そうつぶやいた夏侯惇の身体を曹操がグイと引き上げた。
 彩られていた肌に夏侯惇の影が落ちてたちまち闇色になる。
「華やかな色などいらない…お前の影に包まれたい…」
 せつない顔でそう言って夏侯惇の唇を求めた。
「お前のすべてに包まれて、お前の中で眠りたい…」
 ずっと張り詰めていたものが切れたのか、曹操は迷子のような表情で夏侯惇の身体にしがみついた。
 人間、張り詰めているばかりではいられない。
 今は撓んでいる時期でいい…。
 夏侯惇は曹操の身体をしっかりと抱きしめその耳にささやいた。
「こんな私で良いのなら…」
 閉店したキャバレーのネオンサインが消える。
 闇に包まれながら曹操の心はなぜか和んだ…。
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