冬を前にして、森の中を散歩していたオオカミの夏侯惇は、突然のことに驚いてしまいました。
 だって、目の前の木にウサギの曹操がブラーンとぶら下がっているんですから。
「どうした孟徳。だれかに意地悪でもされたのか」
 あわてて下ろしてやろうとしますが、曹操は真っ赤な顔をして首を振るばかり。夏侯惇は木の下を
ぐるぐる回って説得しますが、曹操が下りてくる様子は一向にありません。しかたなく夏侯惇は
智恵者の銀ギツネ、荀ケを呼んできました。
「曹操さま、いったいどうなさったのです?」
 それでも曹操は答えません。
 やがて…ぶら下がっていた曹操の小さな手は真っ白になり、耐え切れなくなった曹操は手を離して
しまいました。もっともそのころにはトラの許チョが下に控えていたので、地面にお尻をぶつける
なんてことはありませんでしたけど。
 ずいぶん長いあいだぶら下がっていたのでしょう。許チョの背中でぐったりしている曹操は、口を
開くのも億劫そうです。夏侯惇の問いにも荀ケの問いにも答えません。
 ようやく巣穴に戻り、落ち着いてからもう一度荀ケが尋ねました。
「曹操さま、どうしてあんなことをなさっていらしたのです? 曹操さまは木登りは得意ですから、
まさか失敗なされたのではないですよね。なにか理由がおありなのでしょう?」
 曹操はしばらく黙っていましたが、やがてポツリと口を開きました。
「森の中でね…だれかが言ってたのを、聞いたんだ…」
「なにをです?」
「うーんと背伸びしたら大きくなるって」
 いったいだれがそんなことを言ったのでしょう。そして曹操がそんなことを信じるなんて…。
 思わず絶句した荀ケと小さく笑った夏侯惇に、曹操の機嫌は一気に悪くなりました。
「な、なんだ。なんで笑うっ」
「あのですね曹操さま、そんなことをしても大きくはなれませんよ。曹操さまは元々その大きさ
なのですから、どんなにがんばっても…」
 曹操はもう聞いていません。だまされたという気持ちと夏侯惇や荀ケに笑われたという怒りが
収まらないのです。
「みんな出てけー! 文若も元譲も大っ嫌いだ! お前たちは自分がおっきいから平気なんだ。孟徳の
気持ちなんかわかるもんか!」
「曹操さま…」
「孟徳…」
 曹操は半分泣いたような顔になってわめきます。
「出てけったら出てけ!」
 強くはない力で、夏侯惇と荀ケの身体をグイグイと押します。しかたなくふたりは曹操の巣穴を
出ました。
 ようやく静かになると曹操は浮かんだ涙を拭き、巣穴の壁に突き出している木の根っこへいきました。
頭の先がこの根っこに届くのが目標なのです。
「あんだけがんばったんだ。もしかしたら少しは…」
 ドキドキしながら壁に立ってみますが、やっぱり根っこには届きません。
 小さいということは曹操にとって不利に思えてしかたがないのです。許チョや夏侯惇がいるとはいえ、
ときどきひとりでいるとトラの張飛やヘラジカの馬超が襲い掛かってきます。そんなとき自分の足の
速さのことは忘れて、曹操は自分の小さいことだけを気にしてしまうのでした。
 絶対大きくなるまでみんなに会わない…曹操がそう決めてから何日か経ちました。
 貯め込んでいたエサをたくさん食べて、巣穴の中で何度も飛んでみたり、うーんとうーんと背伸びを
してみたり…でも全然根っこには届きません。
「やっぱり文若の言うとおりなのかな…」
 自分にはどうしようもないこと…それが曹操には悲しいことでした。
 しょんぼりしているとだれかが巣穴の入口を叩きました。
「だれだっ。文若や元譲なら帰れっ」
 まだ認めたくなくて虚勢を張ります。ところが聞こえてきたのは知らない声でした。
「曹操さま、はじめまして楽進と申します。このたび曹操さまにお仕えしたくてやってきました」
 初めての相手に戸を開けないわけにはいきません。
 曹操が小さく戸を開けると、そこにプレーリードッグの楽進が立っていました。曹操よりもずっと
小さいです。
「ええと…楽進?」
「はい。字は文謙と申します。うわあ、曹操さまは大きな方ですね」
 荀ケやほかの者が言ったなら曹操はきっと皮肉だと思ってムッとしたでしょうが、楽進に言われると
ほんとみたいな気になります。
「孟徳は大きくないよ。元譲やコチのほうがずっとずっと大きいよ」
「確かにあの方たちはもっと大きいですが、私には曹操さまも大きく見えます」
 小さい自分より小さい者がいる…なんだか曹操はそれまで悩んでた自分がバカバカしくなってきました。
「ありがと、楽進」
「はい?」
 どうしてお礼を言われたのかわからない楽進は、ちょっとだけ首をかしげました。
 それから数日後、許チョの背中に乗って散歩していた曹操に、許チョが声をかけました。
「あれ? 曹操さま、少し重くなったかぁ?」
「え? そ、そう?」
「ああ。ちょっとだけ重くなったぞ」
 少しは大きくなったのでしょうか。ちょっと照れ臭い曹操に、許チョが言葉を続けます。
「曹操さまは確かにちっちゃいウサギだけど、その威光はどんな者よりも大きいんだって荀ケ殿が
言ってたぞぉ。この森の、ここいらいったいを治めてるのは曹操さまだ。曹操さまはどんなウサギより
おっきなウサギなんだぞぉ」
 曹操はもっと恥ずかしくなり、明日八つ当たりした荀ケや夏侯惇にあやまろうと思いました。
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